西郷南洲翁と西郷菊次郎さんの疎水工事

薩摩義士の偉業から学んだ西郷南洲翁と西郷菊次郎さんの疎水工事


奥天降「馬込の貫」

西郷南洲翁が迫田太次右衛門、郡方奉行から農業と農民あっての武士や民だと伝授され、

斉彬公や月照和尚を亡くし、

奄美で妻子と幸せに暮らしていたが、

ある人物に妬まれ、策略謀略にはまり、寺田屋、生麦、薩英戦争により、

成り上がり伸し上がった人物により、

徳之島、沖永良部島と島流しとなり、

また、帰還後に禁門、第一長州征伐、第二次、大政奉還、戊辰戦争となる。

明治元年十一月初旬~明治二年二月下旬まで日当山に寄り、

その後の函館に応援に行き、

浦賀~宮崎吉田温泉から帰還し、

武村を譲り受け、

数々の戦争供養をし、

五代友厚を利のみの人間と批判しつつ、

東征戦亡之碑文を書き、参政辞退、

明治三年七月に日当山温泉に行くつもりが訳あり断念し、

福岡藩黒田家の贋札事件解決に尽力し、

山形庄内藩主以下と会い、

月照和尚の十三回忌墓参(本日、西郷南洲顕彰館で西郷南洲翁の書の鑑定にたまたま立ち会い、本物の真筆では無かったのですが、持ち主が、月照和尚と南洲翁の入水に目付で同舟していた方の子孫でした。こね目付が機転を効かせて戸板を海上に投げ込んで無ければ、真夜中の海流のある大崎ヶ鼻崎で現場に戻る事が出来ず、戸板を目印に戻った場所に南洲翁が浮かび上がり、一命を救われました。亡く成ってれば、その後の展開歴史が大幅に代わり、幕末明治維新もあったかどうか、欧米の植民地に成ってたのではないか。この目付は桜田門外の変でも有村次男の捕縛時の目付でもありました。)、

岩倉大久保が来鹿し、

私の曾祖母の兄の坂元に教訓を与え、

明治四年一月に宮崎細島から山口、土佐高知、神戸、横浜、東京と回り、

二月中旬に帰郷、

四月には常備兵を率いて上京する。

明治五年は六月の御巡幸と十一月の寺田屋事件探究である人物の調査に4ヶ月、

その間に長州閥の山縣と井上の贈収賄汚職不正の結果、太陽暦採用、

学制発布をさせ、

3月上京し、

集義塾開校、等々と繋がる。

この明治二年の賞典禄を一応貰い、

自己の200両の返済等々には一円も使わず、

戦死者供養見舞金や重軽傷者慰労と慰労金、

遺族関係者啓発、

皇居復興、

借家住まいを武屋敷を買い、

そして日当山温泉や牧園、霧島に何度か行き、

世話に成った地域農民の為の馬込の貫に三千両も掛けて農地疎水工事をしたのではと考えます。

一度現地入りし、調べたいと思います。

誰か資料や何かありましたら情報を下さい。

この疎水工事は、あの木曽三川の宝暦治水が活きた結果と考えます。


また、この治水工事から薩摩は手ぶらで帰らず、世間や歴史家が、知らない残り四つの物と、現地に踊りを残しました。

内容は、また別の機会に投稿します。