クリスマスは上野の西郷隆盛銅像お目見えから始まった?

キリスト教の伝来と、クリスマスの発祥は西郷南洲翁なのか、考察しています。西郷南洲翁の留守政府トップが何故に明治5年11月~6年3月までの間、鹿児島に帰還したのかについてもまとめています。


明治五年十二月三日の太陰暦を岩倉使節団不在中の政府トップの西郷南洲翁の指示で、明治6年1月1日に太陽暦採用をします。


実は、この時期、明治五年十一月から明治6年3月まで政府を留守にして、薩摩に帰還してました。その理由は一番信頼していた人物に奄美に潜居の時から全て裏切られていた事実確認調査を自分の目で確かめる為でした。


特に奄美帰還から寺田屋事件、身内の同志討ち、生麦、徳之島、沖永良部島島流し、薩英戦争等々から倒幕、明治政府創り、廃仏毀釈、廃藩置県と、全てが1人の人物の捏造謀略、策略だった事実確認でした。


先ず帰還後に寺田屋の真相を知り、次に歴代殿様の福昌寺が西郷南洲翁が東京に明治四年に上京すると同時に廃仏毀釈により討ち壊され、廃藩置県で政府が面倒を見ないといけなくなった島原のキリシタンを各藩預かりの罪人にし、明治三年に島原から送られてきたキリスト教徒を福昌寺預かりにしましたが、寺が壊され、どんな牢獄住まいだったのか疑問で、元々十字架家紋の島津の最重要な寺で保護したのが真相ではないかと推察します。


何故なら現在もキリシタン墓地は福昌寺墓地境内の西の高台から殿様方々を見下ろす形で現存します。


また、ザビエルが渡来し、錦江湾から鹿児島市内祇園之州台場に上陸し、キリシタン教伝来上陸の地で、いきなり布教を島津が許します。


薩摩とキリスト教の伝来について


その六年前に種子島に鉄砲伝来も、買ったのが1543年で、ポルトガル船は、その数十年前からの地球の裏からアフリカを迂回し交易を拡げ、ジパングを求め、水平線上に屋久島を目指し上京していた種子島に布教と武器を伝え、宣教師が残り、種子島はキリスト教化し、ザビエルを迎え、キリスト教布教の下準備をして1549年にキリスト教伝来と成りました。島津はポルトガルからの十字軍の家紋を付け関ヶ原も戦います。


その廃仏毀釈の宗教弾圧により千年の仏教文化遺産を悉く壊され、キリスト教徒や浄土真宗の一向宗弾圧、奄美のユタやノロ文化、御家騒動流罪、人種差別、赤線青線廃止、国道自由媒介を鹿児島で見て聞いて判断して東京に打電し、実行させます。海外組が居ない時に国民を自由に、戊辰戦争でかこまっていた島津身内の青森のトナミ藩の会津藩士も、斉彬公正室の鳥取藩お預けの会津藩主松平公も自由に成りました。松平公は養子で、薩摩義士の恩恵を受けた高須藩産まれです。薩摩島津が掘っとかないです。


この西郷南洲翁の視察調査で、廃藩置県まで勝手に出入り出来なかった福昌寺の惨状を目の当たりにし、キリスト教徒や浄土真宗や島人、農地解放で小作制度撤廃等々の人種差別を宗教の自由にして、政府軍人官僚の長州の山縣と井上の贈収賄汚職事件での12月分の給金を太陽暦採用で1月分として払い、その2ヶ月弱で2月24日にキリスト教徒を自由にして、明治31年上野の西郷隆盛銅像除幕式後に、明治32年末に東北の老爺がツリーを持ってロバを連れ籠にプレゼント姿の描が全国に現れます。


サンタクロースの元々の姿は三太九郎?


「三太九郎」と描かれた絵です。まさしく西郷南洲翁そのもので、全国でクリスマスが始まります。明治6年の解禁から1年後に東京の集会所で京都がクリスマスをしますが1ヶ所です。その後、大正10年頃に西郷南洲翁生誕地にキリスト教プロテスタントの方々が聖地として隣を買い、敬愛幼稚園を創り、加治屋町教会と成りました。


鹿児島でカトリックを布教させたかった?


カトリックはザビエル上陸布教活動の原点の鹿児島市にザビエル教会を創り、純心学園を唐湊山頂に創る予定でしたが、鴨池に鹿児島海軍航空隊の特攻基地が築かれ断念し、ラサールと一緒に学校を始めましたが、戦後、唐湊に移校し、現在の場所に長崎より多く学生数で、幼稚園、高校、短大、大学まで有ります。


西郷南洲翁の「敬天愛人」はキリスト教徒の本文で、熊本の九州学園の旗印が「敬天愛人」です。