西南戦争は桐野利秋が戦争を指揮していた?

西南戦争は桐野利秋が起こした戦争で、西郷南洲翁は指揮をせず、本当に全て桐野さんに任せていたのかについて、昨日の記事に引き続き考察をしています。


桐野利秋の年功序列の順番は?


まず昨日の記事の続きです。

https://k10cafe.herokuapp.com/detail/17/

西郷南洲翁以下の年功序列で桐野利秋は四番になるのです。が墓は右隣。身内です。


明治10年2月23日の戦闘は、大砲は届かず、ガトリング銃や新式小銃との武器大差で、小競り合いでは前進出来ても、死傷者が多く、籠城の構えなので、補給路を絶つ戦術に薩軍は切り替え、熊本城までの侵入口を取りに玉名まで第一線を進めます。

熊本城は缶詰めにし、毎日砲撃を加えながら、玉名の菊池川向こうに出る予定でした。

明日明後日の戦況を知りながら振り返る辛さが、今の私にはあります。


西郷南洲翁は指揮をせず、本当に全て桐野さんに任せていた?


2月15日から換算すると9月24日自決終焉まで222日間で何故か結果的に数字の2ばかりです。

西南戦争は桐野利秋が起こした戦争で、西郷南洲翁は指揮をせず、全て桐野さんに任せていたと言われます。

全く違います。

一番大隊長の篠原国幹は9歳下で同じ下加治屋町郷中(二松学舎)。

二番大隊長の村田新八は9歳下で同じ加治屋町郷中(二松学舎)。

三番大隊長の永山弥一郎は11歳下で川向こうの荒田町郷中(共研舎)。

四番大隊長の桐野利秋は12歳下で吉野村実方郷中(復習学舎)。

年功序列では、

村田新八(二番)官僚

條原国幹(一番)陸軍少将、近衛隊長。

永山弥一郎(三番)

陸軍中佐。

桐野利秋(四番)陸軍少将。

の順に成ります。

また薩軍大小荷駄隊長の桂久武は2歳下で島津薩摩藩家老、日置島津家の子孫です。

この薩摩の年功序列の中で桐野利秋少将が全て指揮出来る訳が有りません。

常に西郷南洲翁の懐刀としてピッタリと護衛していたから、西郷南洲翁の意思をくみ取り確認して貰い、命令を出す真横に居ました。

薩摩人は口で語らず、郷中教育から腹で語り目で指示命令する。

また、官軍が、勝てば官軍で、でっち上げる歴史戦史では、條原さんは天皇を護る近衛隊長、村田さんは岩倉以下と使節団に行った官僚、永山さんは北海道開拓屯田兵絡み、桂さんは島津一門家子孫なので、白羽の矢が桐野さんを首謀者や全権指揮官と作って来ました。

全く違います。

西郷南洲翁の意思思考が第一にあり、それをくみ取り命令書で発し、具現徹底させたからです。

桐野利秋少将に数万人が命を預けたのでは無く、桐野さん以下数万人が西郷南洲翁に命を預けたのです。

この年功序列を考慮しながら配置や役職や状況判断して初めて真実の史実が見えてきます。