西郷南洲翁出陣時の考察をしてみました|明治10年2月17日

明治10年2月17日、西郷南洲翁出陣時の考察をしてみました。辛い戦いの222日間の幕開けに至る、西南戦争に関する考察です。


西郷南洲翁出陣時の当時の状況について


薩軍武士13000人出陣、

下僕17000人同行。

合計30000人。


西目東目街道は薩摩を出るまで、

家族親族縁者民衆農民、

戊辰戦争重軽傷者、

隠居等々が見送り差し入れが、延々と薩摩を出るまで続きました。

最期の別れに成った方々が殆んどです。

その状況や様子、集合、出陣、経路、手段、宿泊先等々の一部を貼りました。


詳しくはFBの資料を参照して下さい。


https://www.facebook.com/profile.php?id=100004957848453


西南戦争に従軍した西郷家は、

西郷南洲翁

西郷小兵衛さん

西郷菊次郎さんが

出陣し、

西郷イト、寅太郎、午次郎、酉三、菊子、西郷吉二郎妻ソノと子二人、小兵衛妻マツ等々が

朝食4時、5時武屋敷玄関見送り、6時集合、8時鶴丸城前練兵場出陣見送り。

妹の市来琴さんは市来家で息子三人を見送り、

妹の鷹さんは病死してるので夫の三原さん出陣を三原家で娘モリさんが見送り、

妹の安さんは大山家で嫡男大山誠之助を見送り、

岩山家は姉妹や坂元家の兄二人を見送り、

母方の椎原家や、祖母の四元家も各々に見送りました。

官軍方の身内は、東京にとっくに引っ越してるので居ません。

西郷従道家と大山巌家と川村純義家と岩山本家、

私の曾祖母坂元トク兄二人の家族は半分は東京で半分は鹿児島でどんな心境だったのか。


心配する気持ちは親族で同じでも、敵味方ですから。

残された女性達は敵味方の位牌を並べて供養する事に成ります。


オユラ騒動、桜田門、寺田屋、生麦、薩英、池田屋、第一次長州、寺田屋、第二次長州、禁門、戊辰、台湾等々、見送り後は皆さん死んで還りましたから。

各種戦乱で戦い残され生き残った方々が今度は身内で敵味方で殺し合う訳です。

こんな地獄絵図を誰が仕組んだのか。


西南戦争へ向け、苦しい状況が続く


僅か5日の軍義で1日も早く、鹿児島を全軍で出なければ、

全国からの陸海軍が南下し、鹿児島は蜂の巣に成ります。

行く宛も無く、行き先を切り開きながら出陣しなければ成らなかった薩軍には、

唯一、西郷南洲翁の一言

「今般、政府に尋問の筋これ有り」のみでした。

全国の陸海軍を創設し配置し訓練してきた西郷南洲翁以下に取っては、敵の人員装備武器、作戦戦術、陣形等々全て解ってる訳ですから。

天皇の皇軍を相手に勝って善いものか。

戦死していく敵味方の痛みと家族親族の心境を一番、各種戦乱で前線指揮して来た指揮官ばかりですから。


辛い戦いの222日間が幕開けしました。