菊池寛と西郷隆盛とは縁が深かった!?

菊池寛と西郷隆盛の意外な関係性について解説しています。菊池寛の先祖と西郷南洲翁妻イトの岩山家も同じく、小田原の北条氏につき、埼玉県忍城で秀吉軍と戦いました。


菊池寛と西郷隆盛とは縁が深かった


鎌倉殿や小田原、熊本菊池、岩山家、西郷家、香川県高松、岩崎行親、敬天舎、等々、縁があります。


大衆明治史の内容


菊池寛の先祖は熊本の菊池一族で、菊池武房の子孫末裔で、西郷南洲翁妻イトの岩山家も同じく、小田原の北条氏につき、埼玉県忍城で秀吉軍と戦う。

その後、会津を経て足利姓から岩山姓に改名し、薩摩に雇われる。

菊池寛の先祖も同じく薩摩に雇われ、縁あって四国高松に移り、その子孫が菊池五山、菊池寛です。


西南西南の謀略と武力進行により、無防備だった西郷南洲翁以下を戦争にかりだし、九州から出れないよう玉名と延岡にラインを引き、九州に交代交代に15万人を送り込み、最期の城山攻撃では陸海軍六万人、城山包囲にその内五万人、対する西郷軍は僅か350人で集団虐殺リンチでした。


有司先制の鹿児島出身の政府トップは8/21~11/30まで上野の山で勧業博覧会を外国相手に軍艦大砲の交渉しており、西南戦争をイベントに、城山最期をプレゼンテーションに使い、西郷南洲翁自決の日も会場でワイン片手に社交ダンスをしておりました。


この戦死者の中には並び鷹の家紋の菊池信吾等々がおり、菊池寛が南洲墓地にお詣りしてた事実が将来証明されれば尚更この縁を深く刻み、西郷南洲翁と同じく朱子学、陽明学の知行合一の菊池寛は何を感じ、その後の作品または知らず知らずに同じ道を歩んでいたのだなと感じます。



本当に不思議な縁ですが、西郷南洲翁と同じ菊池一族の末裔で薩摩に仕えてるのも、菊池寛が西郷南洲翁を意識したのは解ります。


鹿児島に雇われて来た香川県丸亀出身の岩崎行親先生が敬天舎を創設し、

七校造士館(現在の鹿児島大学)、

一中(現在の鶴丸、川内、川辺、加治木高校)、

福山中学(現在の福山高校)を創設創立初代校長です。

調所笑左衛門広郷の三男が初代札幌県知事で、黒田清輝北海道長官の指示のもと、西郷南洲翁の遺志を継ぎ開講させた札幌農学校に、

調所が初代校長、

クラーク博士が教頭、

二期生に内村鑑三や新渡戸稲造と岩崎行親先生がいました。


岩崎先生の香川県丸亀の隣が高松で、菊池寛の出身地です。

仲間に札幌農学校出身の有島武郎がおり、

弟子仲間に芥川龍之介がいます。

三人(菊池寛、有島武郎、芥川龍之介)で書いた「家族って、どんな家族?」は読んでみたい。

鹿児島からは林芙美子、向田邦子、椋鳩十等々がおり、

西郷南洲翁縁の

桜島有村(林芙美子、西郷南洲翁が有村麓集落に通い、平瀬家や園田家の親族がいた)や、

城山町山下町(向田邦子)山下小学校(西郷南洲翁が学制で開校した小学の一つ)、

城山長田町城ヶ谷(椋鳩十屋敷書斎)等々、

同じ時代を生きた文学家達は、西郷南洲翁の縁の地域にいました。

何か見えない糸で結ばれていりような。

また、絵描きの画家達も、

郷中教育の各学舎出身で、

各学舎が西郷南洲翁や西南戦争従軍者達でした。

西南戦争従軍者には、

各小学(尋常小学で現在の小学校と中学校)の校長や教頭や先生や父兄が従軍しており、全て繋がっています。

いつの日にか、私が元気な内に、

各学舎の舎生名や舎誌や写真(明治大正昭和)、

舎生の生い立ち先祖子孫等々を連合学舎として、

一同に集め、したにあげる各界の方々に御披露目し、複雑なようで繋がっていた関係を紐解いてみたい。

残念な事に各学舎は元々郷中教育の舎で、

言葉を交わさず叩きあい、口をきかず、縁組みしない、切磋琢磨しあって競い、監視しあってた舎が、

現在は学舎連合として、伝統行事をしてはいますが、2時間飲めば、(川向こう、総理大臣と握り飯、紙漉き侍と唐芋侍、等々)と口論喧嘩に成る程、

各学舎同志は難しく、各々に招魂祭を行い、舎誌を作っています。

複雑に絡んだ糸をほどき、繋げ合わせれば、と胸が高まります。

各学舎が、日本のあらゆる業界に行き、現在の日本の礎を築いて来た方々が西郷南洲翁や薩摩島津から何を学び、何を為したか。

公家、華族、政治家、軍人、官僚、外交官、留学、医者、画家、美術家、陶芸家、芸術家、作家、文化人、芸能人、武道家、スポーツ選手、オリンピック、書道茶道華道、舞踊、教育者、音楽家、弁護士等々、商工業起業、農林水産業、僧侶、神主、奇人変人等々、どれほどおり、どう繋がるのか。


幕末から昭和初期まで、鹿児島城下から出た偉人は各町内におり、約1000人。


これだけ育て活躍した人材を出した土地は他には無く、世界一、人材育成した町である。


全て桜島が見える日本の地の果てに守護職、地頭の左遷、全国から落ち逃れ隠れ潜み逃げ伸びた一族が、京都に返り咲く夢を希望に、ひたすら戦い生き延び、公家武家言葉を未だに使い、幕末に京都に登り、鎌倉から650年掛けた歴史を幕末から花咲かせましたが、


漁夫の利で美味しい所だけ持ち逃げし、鹿児島を逆賊にして、鹿児島に二度と帰れない一族が一部出た事だけが、悔やんで成らない。勝てば官軍、勝者の理屈で歴史や史実まで改竄され、教育観光の為に、善くも悪くも、面白く使われ真実を語れない状況に成っています。


真実に目覚めよ薩摩人。


まだ一度も合同招魂祭は無い。


ペンネーム

大久保 凶之助 デビュー