岩山トクさんが語る西郷さんの姿についてのお話です
実物の西郷さんと直接同行した私の曾祖母の岩山(坂元)トクさんが語る真実の姿を聞いて下さい
岩山トクさんとは?
岩山(坂元)トクさんは96歳で昭和26年に鹿児島市長の勝目清(岩山家と同じ郷中の興国学舎)さんと上町の現在の今給黎病院の岩山屋敷で対談し、翌年97歳で永眠します。
現代医学なら百歳を軽く生き抜いたでしょう。
明治八年に日当山温泉に西郷南洲翁と共に行った思い出を昨日のように語ったテープが現在も加治屋町の維新ふるさと館で公開流れています。大河ドラマでは西郷どんの味噌造りでテープが流れました。
トク婆さんは兄四人が敵味方に軍人で戦い、西郷南洲翁の妻イトの実家岩山家に嫁ぎ、岩山家の嫡男家等々を育て上げ私に申し継がれてきました。
私の父は20年一緒に暮らしてました。
兄の長兄は陸軍少佐で官軍として唯一南洲翁の検死の証人でした。
次兄は陸軍中尉で薩軍としてイト生家隣の伊集院家(伊集院病院)に養子で熊本で戦死し、南洲墓地南洲翁後の二列目に墓があります。
三兄は海軍少尉で官軍として南洲翁最期の岩崎口を攻撃した隊長で、部下が戦利品にし、介錯した別府さんの刀を取り上げ大切に保管し、京都霊山に寄託してる坂元家です。
四兄は薩軍軍曹で薩軍として、松岡家養子要りし、兄と戦い、その岩崎口で戦死します。
長兄が嫡男のとして、坂元の莫大な土地(坂元町)を手放し、親族等々から命令で西郷南洲翁や親族と戦った為に坂元家本家が住めなくなり、家を焼かれ糞尿を撒かれ追い出されました。
岩山家に嫁いだトク婆さん
岩山家に嫁いだトク婆さんの心境は図り知れません。
その岩山家嫁入りの持参金が南洲神社下南風病院横の登り口から頂上の公園上まで南洲神社周辺5000坪が持参金で、南洲神社入口道路上の三本大楠は、私の父その兄姉が植えた楠で岩山屋敷が下と上に有りました。
私の父達は、この二つの屋敷を行き来してました。あのテープ内の笑い声は父達で、今給黎病院の場所なので、汽車の音や鶏の鳴き声が入ってます。
隣が私の母方の若松の祖父の市場で、森進一母子が住み込みで祖父のラーメン屋に雇い、森進一は中三で1年後に関西に集団就職列車で旅立ち、母と姉妹は鹿児島に残りました。
おそらく、韓国併合、満州国建国で当時日本の領土だった北朝鮮に移民で渡った一族でした。直ぐ近所に鹿児島の四元義隆さんの父が敬愛塾を開設し、学生だった四元先生と森進一の父は塾の同塾生でした。
日本に四元先生は帰国後に血盟団事件に連座し、鈴木貫太郎首相の第一秘書となり玉音放送を国民に流す役割を迫水さん達として終戦を向かえ、戦後は磯の敬天舎と鎌倉で後継者育成と総理大臣七人を育ててる最中に森進一一家が苦しい生活を日本中たらい回し状態だったのを見かねて、鹿児島に招き生活保護をしました。
若松の市場と岩山家が隣併せだった縁と、西郷南洲翁が市来で若松屋で茶飲み休憩していた縁と、祖父の従兄弟が濱田光彦県会議員で敬天舎同人だった縁で、私の母が岩山家から次男の父を養子で婿取りし、私が長男で生まれました。
その坂元家の兄達の敵味方の経緯を調べれば、何十回、読み見直しても、読むに涙、語るに涙で、まともに涙で読めなくなります。
細かい関係が、一人一人の名前で調べられ尽くされているいるのでリアル過ぎます。
この真実が、色々と形を変えて作家や歴史家の手により、色々と変化し、観光ネタもまともな真実は戦争絡みなので、ぼやかされ、勝てば官軍通りに捏造までされてます。
この名簿に皆さんの先祖は居ませんか。
ここの内容に出てくる、私の曾祖母の兄の坂元少尉と坂元少佐は官軍で、薩軍で亡くなる坂元中尉と坂元軍曹がいます。
資料は一部しか貼りませんでしたが、全てハッキリとしてます。
テープも維新ふるさと館では12分しか聞けませんが、予備マスターテープは35分と翻訳解説も私が店に持って聞けるようにしています。
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