西郷隆盛が写真を撮らなかった理由と似ている肖像画について、西郷どんの親族が解説

西郷隆盛が、写真を撮らなかった理由と、実際に似ている肖像画について鹿児島に残った西郷家の伝承をしてきた唯一の親族が、解説しています。


西郷隆盛が写真を撮らなかった理由とは?


薩摩藩島津家には自らの写真や功績や恩賞目的の家臣は居なかった。残し残そうとする家臣は薩摩の武士ではない。

幕末に日本で初めて写真を撮った島津斉彬公や島津久光、島津忠義公の配下家臣が自ら写真を撮る文化が無く、残している者がおかしい。


関ヶ原の戦いから西郷隆盛の写真がない理由がわかる?


その理由は、関ヶ原の戦いを学べば解ります。

地の果ての最南端から、関ヶ原まで甲冑着用や背負い、幾多の大名領地を抜け、たどり着くだけでも命懸けで、戦う前に体力も限界状態で、結果的に中々島津が動かないと評価されますが、実質、体力の回復が追い付かず、態勢は不利な状況の中、徳川本陣目掛けて、敵中突破で抜けた後、島津義弘公を生きて薩摩まで帰還させる為に、家臣達は、薩摩島津独特の戦法を使いました。

薩摩島津には島津義久公があみ出した釣り野伏、捨て奸、座禅陣等々がありました。

関ヶ原の合戦帰路は、その捨て奸と座禅陣で、無事に殿様を帰還させる為に、帰路地に五人~十人が数百m置きに、命を掛けて捨て奸し、座禅陣を組んで死ぬまで時間稼ぎをして、人質に成っていた姫君を救い、堺の港から帰還しました。

総勢当初は約五百名、都城での庄内の乱を鎮圧し、追い掛けて馳せ参じた温故の家臣千名、合わせて千五百名に対し、殿様と帰還した手勢は僅か百名足らず、後に少しずつ帰還しますが。

この帰還帰路地での状況の中に、秀吉の様な、生きて帰ろうとか、無事にとか、恩賞とか、手柄をなどという武士は薩摩には居ませんでした。

殿様が亡くなったら家老職の重臣が殉死する為に、殉死禁止令を出した程でしたが、元々一君にしか仕える気しか無い薩摩では殉死が無くなりませんでした。

幕末期でも同じで、写真ていう後世に自分を残す事自体、薩摩武士の恥でした。

明治四年以降は藩が県となり、殿様ではなく藩知事でしたから、写真を残しても薩摩武士では無いので大丈夫なのですが、西郷南洲翁は終生、薩摩武士道を貫き、島津斉彬公のみを殿様として、生き抜き、写真も明治天皇から望まれても、一枚も撮らず残しませんでした。

西南戦争で亡くなった西郷南洲翁の御首が出て来なかった事にしたのも、敵味方全て、写真が無いのを認識しており、四年前の初代司法卿だった方を、佐賀まで自ら行き、晒し首写真を撮らせて全国に刃向かう者が出ないように配布した経緯と、西南戦争城山での南洲翁以下の晒し首や御首を掲げた錦絵が十枚程有ります。

目的の一つが西郷南洲翁の晒し首写真でしたが、誰かが認めると、一枚も無い西郷南洲翁の御首だけが写真として、我々の時代まで残る事を誰もが解っていました。

西郷南洲翁は写真が一枚も無いから、世界一肖像画が多く描かれ、似てる似てないの皆さんの評価に成ってます。


西郷隆盛の写真と一番似ている肖像画に関するグッとくる話


因みに一番、私が似てると認めてる肖像画は、貼り付けた肖像画で、昭和元年以前に描かれ、数年前に枕崎から出てきました。

私が認める根拠は、私の曾祖母の岩山(坂元)トク婆さんが、明治八年に西郷南洲翁以下家族大勢で日当山温泉に同行し、岩山家に明治二年に嫁いでから二十歳で温泉に行き、昭和26年に鹿児島市長の勝目清さんとの対談テープ35分で、語った内容と、20年トク婆さんと暮らした父や身内の証言に、「キヨソネ画の福耳では無く、縦長に長かった」と、南洲翁の末弟の西郷小兵衛さんの妻マツさんの「耳が長かった」と、西郷隆盛年譜の明治四年1月20日、土佐の山内豊範公主催の御用商人竹村左右武智宅での観察記録に、背高と目方と「骨みぞのない餅を延べた様な耳」があり、先天的な特徴が耳で、後天的な特徴がトク婆さんの証言の「煙管で目の上の所を擦り、高く成っており、煙管で擦って額の剃り込みの下が両側、毛が剥けていた」で、肖像画を検証すると、この肖像画に全て描かれており、あの激動の幕末を生き抜き、武士としての風格、貫禄、威厳があり、明治四年以降の初代陸軍大将として軍人としての貫禄と威厳、そして民を慈しむ憂いのある眼差しがあります。