西郷南洲翁と大久保利通は、親友でも幼馴染でも無かった!?

西郷南洲翁と大久保利通の関係性について、歴史的な資料から考察しています。西郷南洲翁と大久保利通は親友でもなければ、幼馴染でも無かったのか?


西郷南洲翁と大久保利通の育ちについて


西郷南洲翁は下加治屋町郷中産まれ育ちで27歳に共研に引っ越します。

三歳年下の大久保利通は甲突川向かいの高麗郷中で産まれ七歳で訳あって下加治屋町に父の兄の家督を継いで養子で入ります。

下加治屋町郷中の小稚児組です。

三歳年上の西郷南洲翁は十歳の長稚児組で稚児頭まで成ります。リーダー経験があるのです。小稚児頭、長稚児頭、二才頭。

皆さんよく考えて下さい。

現代でも親友で幼馴染みは同級生かい一歳二歳違いまでです。三歳違いは例えば小4と中1、中1と高1の違いは、神と下働きぐらいの違いです。


西郷南洲翁と大久保利通は幼馴染で親友だった?


西郷南洲翁自決後に大久保利通が前島密等々に幼馴染みで親友朋友だったと語ってます。

そもそも、そこからが間違えて認識されてるから、歴史の見方が全く変わるのです。

薩摩では特に郷中教育が徹底され、隣の郷中とは口も利かず叩き合い、石を投げ合い、縁組もしないのです。

故にお互いが川向こうとか、唐芋侍と紙漉き侍とか、市制も、市来は東市来と市来、串良と東串良、根占と大根占、頴娃と枕崎は隣で言葉まてま違います。

お互いが切磋琢磨し監視し合う関係でした。

尚、留守政府トップの西郷南洲翁が明治5年11月~明治6年3月まで鹿児島に大久保調査確認で帰還中、明治6年2月24日にキリスト教解禁をします。

それか昨日で、たまたま、キリスト教徒の叔母さんからメールが来て、その事を伝え驚いたところでした。


西郷南洲翁の藩士時代について


藩士時代は自由に入れなかった福昌寺に先ず主君島津斉彬公の墓参りをしてみると、大久保利通の命令指示により廃仏毀釈でぶち壊され、キリスト教徒の方々の様を見て、宗教の自由と、解禁等々を西郷南洲翁自ら命令指示しました。

大久保利通は、海外でその知らせを聞いて明治6年3月末に政府東京に戻った西郷南洲翁の事が一番気がかりで5月に1人だけコッソリ帰り、9月に使節団が帰還するまで策略を練り、10月に参議になり、鶴丸城まで焼き、西郷南洲翁を下野させます。

西郷南洲翁と大久保利通との数百の手紙のやり取りが明治5年8月12日をピタリと最後に有りません。

これまでの経緯全てを知ったのです。

特に寺田屋事件では三歳年上の慕っていた有馬新七さんや、山川港で自決する森山さん、屋久島で病死扱いになる是枝さん等々は全て年上の先輩でしたから。

権力と財力と名声欲しさに、何れだけ命と血と汗が流されたか。安全地帯で作戦策略を練る者は、死と血と汗を知りません。情け容赦無く非情な人物に成ります。

結論としては、西郷南洲翁と大久保利通は親友でもなければ、幼馴染でもないのではないかと考察できると思います。