西郷隆盛の親族による、時代の年月日には必ず意味があるのではないかという話

改めて日本の方向を原爆まで導いた人物の暗殺を赤飯を、炊いて喜んだ日


5月14日、紀尾井坂で、

全国民から嫌われ憎まれ、

地元、鹿児島薩摩の老若男女から裏切り者、

卑怯者と言われた者が、

2日前に経路を変えたのにもかかわらず、

身内からチクられ、

護衛も付かず、

暗殺された当時の薩摩鹿児島、石川、山形、熊本、宮崎、大分、全国の寺社、藩、武家の祝日です。

陰謀の限りを尽くし再三の挑発を掛けてきた。


西郷南洲翁の判断指揮で、

全軍率いて地元を焼かれず、

女子供を巻き添えにしない為に、

西郷南洲翁は49歳で、

誰も経験の無い50年振りの大雪で、

城下で30cm、

大口街道で1m雪が積もる中を山岳地帯に出陣し、

7ヶ月半もの武力進行から戦争にされ、

かつての部下や同僚、親兄弟親族を相手に戦う死闘で敵味方、死んでいきました。


九州に15万人の大軍を派兵し、

玉名や延岡で待ち伏せ、

関門海峡を渡らせず、

9月には鹿児島に6万人の陸海軍と軍艦20隻を送り込み、毎日城山に艦砲射撃と、

三ヶ所からの陸軍砲台からの砲撃、

城山包囲に5万人、迎え撃つ西郷軍は4日の米蔵攻撃で白襷隊が百人斬り死に、


残り西郷南洲翁以下350人に5万人で総攻撃、

新照院の其奴の家等三軒以外は、その周辺も全て焼き尽くされ、後に鉄道総裁に成った床次竹次郎が仲間を集めて、

其奴の家をぶち壊しに行きました。

床次の父は判事で薩軍に戻ろうとしましたが、

三島通庸に阻止され、

逆に薩軍捕虜を裁く側となり、

その政府に見切りを差し辞職、

絵描きとなり明治20年のダブルの軍服の鹿児島市立美術館所蔵の西郷南洲翁肖像画を描いた。


その間、仕組んだ張本人は上野の山で、

イギリスやフランス相手に勧業博覧会の最中、

ワイン片手に社交ダンスを躍りながら、

別室で軍艦三隻「芙蓉、金剛、比叡」の契約支払い。

この軍艦の建造監督でイギリスに完成するまで留まるように其奴が命令し、

翌年に軍艦三隻と帰国するのが東郷平八郎元帥でした。

東郷さんの兄小倉壮九郎は最期の日の洞窟前で刺しあって戦死し、嫁は有村俊才の妹、有村の娘が東郷さんの嫁でした。

 

西南戦争を外国人の見物客のイベントに、城山最期をプレゼンテーションにして、武器売買契約外交を優位にするために実行しました。

また、戊辰戦争での賞典禄を一番貰っていた薩摩武士に、 

政府が恩給を払わないで済むように罪人にして召し上げ、

武家から金品略奪、

婦女子暴行、

家屋は全て上町下町谷山まで焼き尽くし、

遺体は身ぐるみ剥がれ、

ちょん切り、

口に加えさせられ、

糞尿と共に堀や川に投げ込む様子を、

女性達は生涯目に焼き付き忘れず、

今宵、電報で知らせが届き、

鹿児島中で赤飯 を焚き、

祝い祝宴の煙に鹿児島中が包まれました。

其奴の遺体は身体に刺し傷1ヶ所、

頭の形は無く、

頭蓋骨を15回も日本刀で切り刻まれ、

脳ミソだけがピクピク跳び跳ね、

跡形無い首でした。


江藤新平の晒し首を佐賀まで行き写真に撮らせ全国に配り、


西郷南洲翁以下の晒し首写真を求めた其奴の目出度い命日です。


皆さんは今も騙され、

親友や幼馴染みと思い込まされてますが、全て其奴が戦争後に言い触らして周り嘘虚言です。

3歳違いで川向うの高麗町から7歳で引っ越し、

西郷南洲翁だけが気に掛け面倒をみた稚児時代から僻み妬み癖のある、

頭は悪く悪賢い、

武道剣術は怠けて刀を抜く場面には居らず必ず安全な所から指示を出し、

稚児頭や二才頭のリーダーには成れず、

卑怯で裏切りる性根の腐った少年でした。

斉彬公に一度も抜擢せず使って貰えず、

西郷南洲翁が奄美に潜居に成った途端、

島津久光に近付き、

元々、囲碁の名人の娘のマスさんを娶り、

囲碁は得意の其奴は、

税所篤の兄の南泉院の和尚に近付き、

久光に支えます。

南泉院も其奴の廃仏毀釈で壊され廃寺に成りました。


今頃は地獄の釜の傍らで閻魔大王と現代をあざけわらいながら囲碁を打っています。


神仏の世界では悔い改め反省し罪を償い謝罪した者を許しなさいと言っています。

西郷南洲翁の遺訓に「人を咎めず」とありますが、今、人を騙し裏切り殺してきた人を咎めるな等々とは言ってません。

よく前後を読んで下さい。

一部をすっぱ抜く輩がいます。

元来の嘘つきは反省などはせず、

一生嘘に嘘を重ね暗殺されるまで、

地獄に落ちても、

悔い改めるところが、

閻魔大王にも平気で嘘をつくでしょう。


そもそも、どこからどこまで嘘なのか、

実は全てが嘘。

国の為に莫大な借金も2ヶ月後には債権でチャラ、

子煩悩も8人の息子達は何も語らず、

3歳の一人娘だけのネコ可愛がり、

胸元にあった2通の手紙も西郷南洲翁の苦言の手紙、

子孫は官僚と財閥となり、

権力財力の恩恵を現代まで受けて贅沢三昧な人達、

嫁のマスさんは16年も連れ添いながら、

エピソードは一つもなく、

パワハラ三昧、

杉浦ユウと行ったり来たり、

取っ替え引っ変え子造り三昧、

出産の時には、片方側で子造り最中。

全て年表にし調べました。

何処に真実があるのか。

数え上げれば、

よいところは全く見当たらなく、

悪業三昧。

歴史の大半が捏造。

調べれば解ります。


赤飯を焚き、

細々と鹿児島の県民が祝うくらいしか出来ない、

官軍の軍人、官僚、政治家、財界の威張り腐り、一夫多妻の浮気三昧で、権力と財力で雁字搦めにされる善人達の時代でした。


その西南戦争に官軍従軍記者で取材したのが犬養毅で、5.15事件で暗殺された日です。


また、西郷隆盛銅像前から沖縄まで、沖縄返還の形に残る軌跡として、国道58号線が出来ました。


月日も考えて出来てます。

1日前なら悪い祝日に成りますから。


明治四年7月14日は廃藩置県を西郷南洲翁の人柄で実行し鹿児島県民の日ですが、

フランスナポレオンの革命記念日パリ記念日です。

実は計画したのが其奴の腹黒さで誰にも相談話し合いせず、

独断と独裁で、

戊辰戦争を戦った藩を3藩ずつ、くっ付けて、廃城と言えば金に成る城がある無いと、

国宝級の財宝がある寺がある無いと、

米や生糸等々がある無いと、

貿易港や軍港がある無いと、

金銀銅鉄が採れる山がある無い等々を、

誰に相談出来るでしょうか。

現代の市町村合併でも数十年掛けても難しいのに、

明治三年の1年間で草案し、

西郷南洲翁の人柄と薩摩中心の護親兵により断行させた其奴は、

海外逃亡の使節団に息子二人を狙われない様に連れて行き、


明治五年11月から明治6年3月まで留守政府を任されてる西郷南洲翁は、

明治五年の御巡幸で200両の借金を25年掛けて給金から返済し、

その間に其奴の寺田屋事件の謎の経緯を聞かされ、

手紙のやり取りを8月12日を最後に断交し、

改めて11月に帰還し、4ヶ月掛けて其奴の陰謀を調査謎解きします。

其奴は西郷南洲翁の鹿児島調査の知らせを海外で聞き、

慌てて明治6年5月26日にコッソリ帰国し、

隠れながら西郷南洲翁以下の政府辞職を捏造模索し、

9月13日に使節団が帰国するまで謀略策略し、

其奴には、どうでもよい征韓論を西郷南洲翁に濡れ衣を着せ、

遣韓論派の西郷南洲翁以下を下野させ、


西郷南洲翁が鹿児島に着く11月10日に、

政府に内務省をおき、

自ら大蔵卿から内務卿と成って、財力と権力を全て手に入れ、

西郷南洲翁の遺児も、官軍側に就いた薩摩出身者を役職と財力を与え、

がんじがらめに、言う事を効かせて独裁者と成りました。


この時代の年月日には必ず意味があります。

明治22年2月11日は建国記念日、天長節で西郷南洲翁個人の賊が解かれましたが、パリ記念日1789年から100年後の1878年が明治22年です。

鹿児島の西郷隆盛銅像除幕式も明治天皇の明治五年の御巡幸出発日です。

私の誕生日に加藤清正公が誕生しました。