田原坂陥落の日に、敢えて、戦争と平和を考えてみました

西南戦争も、西郷南洲翁以下や県民国民が誰も望まない戦争反対の中で、一人の有司独裁者によって、三回の挑発を掛けられ、武力進行により、細やかな幸せや、暖かい各々の家庭家族が敵味方に引き裂かれ、平和の温もりが、簡単に戦争にされ、武力で防御防衛せざるを得なく成りました。家族を守る為に、戦争反対をいくら唱えても、一人の狂人には届きません。

世界中が、数千年、平和や安心安全を唱えても、最終兵器まで持つ国には、どこの国も止められなかった歴史が証明しています。

止めれるのは世界中の国々でも無く、武力進行してる国民が止めるしかありません。

だからと言って武力放棄して戦争反対や平和を求めても、理屈を作り武力で進行します。互いに武力を使えば戦争、使わなければ、侵略されます。

世界中の平和の叫び希望を、進行国の国民に止めて貰うしか方策はありません。

現在、某国が武力進行してますが、某国の歴史や文化や国民が悪いのでな無く、どこの国にも、狂人がおり、身近にも居ます。

田原坂陥落の日に敢えて、ここに某国と日本、薩摩鹿児島との善いが関係、善いエピソードを照会します。


この頃は関係が善かった某国。

某国がシベリア鉄道開通記念で、ニコライ二世が皇太子時代に、日本鹿児島を訪れ某国皇太子一行は人力車を連ねて士族授産場に行きました。

ゲオルギオス親王とともに紡織場、煙草製造所等を巡覧し、山内鹿児島県知事は最高級の紙巻煙草を献上しました。薩摩の煙草は献上煙草で日本一でした。

鹿児島市民歓迎場の名山小学校に赴むき、小学校庭で鹿児島古来の撃剣と棒踊りを披露しましたが、ニコライ皇太子は上機嫌で、自ら棒を手にして棒踊りを試みたりして鹿児島県知事ら鹿児島県民を喜ばしました。

昼食の時間になり、長崎省吾の指示で長崎からまねかれた西洋料理店外国亭の主人による西洋料理が出され、皇太子は食事を頂き、島津忠義公の屋敷に向かいました。

フロックコートを着た忠義公が門内で出迎え、その背後には鎧、甲に太刀を腰にした武士装束の者が 200人ほど控えていて一斉に頭を下げ、皇太子と親王を驚かせました。

次に200 人ほどの武士装束の侍踊りが披露され、犬追物の催しにも驚嘆なさりました。

島津家代々の鎧、甲、刀、槍等の武器をはじめ、絵画、古薩摩の焼物等の披露もあり、忠義公は、皇太子、ゲオルギオス親王の姓名頭字組み合わせた文字入りの美しい壺(2尺ばかりの薩摩焼花瓶)を献上なさいました 。

次に広間で藩政時代の日本料理のもてなしがあり、侍踊りや犬追物と対照的な武家子女の給仕の優雅さに、皇太子は感嘆している様子でした。

夕刻になり、皇太子とゲオルギオス親王は、島津家前の波止場から島津忠義公や鹿児島県知事らに見送れて短艇に乗り「アゾフ号」に向かい、午後 6時 30 分、「八重山」を先導艦に「ナヒモフ号」「モノマフ号」二艦をしたがえて鹿児島湾を離れて行きました。

その後、京都、大津に行かれ、事件が起きました。

鹿児島城山下の照国神社横、探勝園裏の小高い所に、ニコライ二世の度デカイ、来麑記念碑が有ります。

また、磯仙巌園横の鶴嶺神社境内には、日露戦争での水師営平和会談のステッテル将軍と乃木大将の、その場にあったナツメの木の孫にあたる木は、種を持ち帰り敬天舎で種子を育て、その種子を寄植し、毎年1月5日の記念日に島津の殿様以下で記念日を平和祈願しています。

現在の某国の一人の狂人の行いと、あの西南戦争の時の政府トップの狂人の行いが重なって見えます。

残念では済まされず、とても残念です。また、可愛そうな誰も信じられない、1人ぼっちなんだなぁと哀れむだけですが、その狂人に命を奪われ、家族が引き裂かれ財産を失う国民と、某国の絶対服従の命令下で嫌々戦う兵士や、その家族も、可愛そうです。

某国の中で権力を奪い、選挙や裁判で裁いて、解決して貰いたいです。

世界中の平和と安心安全な生活の為に。