キリスト教と三島由紀夫、薩摩藩は繋がっている?
薩摩藩と青森県の弘前藩と黒石藩、キリスト教と三島由紀夫は全て繋がっている?今回は、キリスト教の伝来に関して、それぞれの藩と、三島由紀夫の関連性について考察しています。
弘前藩と薩摩、キリスト、三島由紀夫ついての歴史的な背景
弘前藩の支藩だった黒石藩は、戊辰戦争では西郷南洲翁率いる新政府軍で函館五稜郭に従軍し、この功績により明治2年(1869年)に賞典禄1,000両が下賜された。
明治4年(1871年)7月、廃藩置県により弘前県となり、同年9月、黒石県、七戸県、館県(北海道南西部)、斗南県、八戸県を合併。後日、県庁の青森移転に伴い青森県に改称された。
薩摩藩主・島津重豪公の十四男として誕生した。幼名は虎之助、篤之丞。初名は久命。
天保9年(1838年)に八戸藩の第8代藩主・南部信真公の婿養子として迎えられる。
島津重豪公の息子の養子先は中津藩、福岡藩、外様ながら幕閣に列していた丸岡藩など有力藩が多く、
2万石しかない小藩・八戸藩への養子は異例であった。
養子縁組や娘の嫁ぎ先等々は双方に取って役に立つ場合と、関係が拗れた場合は人質
となる。
お由羅騒動では、島津斉彬公が薩摩藩主を継ぐよう実兄の黒田斉溥公と共に尽力し幕府に運動した。
この複雑な背景から、私の叔父さんの一族はキリスト教宣教師として、青森県から鹿児島に入り敬愛幼稚園、加治屋町教会、甲南教会の関係者です。
家老唐牛源右衛門黒石藩?父唐牛正は女性宣教師を青森から東京神学大学ヘ導く。
唐牛儀右衛門は津軽黒石藩の家老でした。
唐牛の名字は青森に唐牛村があり、そこから学生運動のポンツに成ったのが唐牛健太郎でした。
仲間のポンツに四元義隆先生の血盟団の同志の娘が四元先生の膝の上で遊んでいた重信房子で、
それを東大の先輩だった三島由紀夫が東大講堂で説得し、死を持って訴えたのが自衛隊市ヶ谷会館バルコニーで割腹自決。
三島由紀夫の本名は平岡で、祖母の妹が薩摩の○○○の右腕であった三島通庸の息子に嫁ぎ、三島通庸の娘が○○○の次男、牧野伸顕の嫁なのを払拭する為に、三島由紀夫は福島県で一番嫌われた薩摩の鬼県知事と言われた三島をペンネームに使う。
因みに青山墓地で一番デカイ墓が三島で、二番目が○○○です。
西郷家は土の上に漠然とあります。
青森と鹿児島の関係とは?
唐牛健太郎さんの闘病の最期を看取ったのが鹿児島の某病院長です。
何か不思議な縁がグルグル回ってます。
イントネーションも、同じ。
鹿児島弁の
うんだもしたん。
うんだだもこら。
初代函館県知事は西郷南洲翁縁者の時任さんで、現在の青森函館でした。
西郷南洲翁が西南戦争で唯一2度宿泊する宮崎県小林の時任家、二度目の共研屋敷の共研舎の時任さん等々が縁者でいます。
時任は函館県知事になり、子孫に時任三郎がいます。
弘前城の桜も、西郷南洲翁の先祖の菊池一族が東北に流され送られ、弘前藩士と成った菊池さんが植えました。
青森の林檎は、私の曾祖父と、西郷南洲翁の妻イトの岩山本家従兄弟の男頭だった岩山敬義さんが岩倉使節団で農業のトップで欧米に渡り、農業、牧畜、穀物、果物の種子を持ち帰り、千葉県の西郷南洲翁が第一回陸軍大演習をした習志野に種蓄場を創り研究し駒場農学校、御料牧場を創り、林檎を青森、メロンを夕張、明治9年に、岩山敬義さんの功績が北海道に林檎、メロン、さくらんぼ、ブドウ、大麦麦芽(薩摩藩士村橋久成の札幌ビール)等々に繋がり、青森県の林檎、山形県のさくらんぼに成ってます。ただし商品化は大正以降。
北熊本の単身二年間に、菊池は通い捲り、調べ捲り、甲冑で協力し捲り、菊池七城の西郷集落等々、
菊池一族南朝の後醍醐天皇の奈良の都の奥の院の吉野桜、
江戸時代に武家に桜家紋は居ないのに対して、
西郷南洲翁が自分の家紋の菊を天皇に奈良の桜を、護国神社、靖国神社の菊を護る桜家紋に、軍隊、警察、尋常小学校、大相撲協会の紋にします。
青森との関係についての追記
この唐牛健太郎と青森で仲良しだったのが劇作家の寺山修司です。
寺山家は元々薩摩藩士で丸に十字の字の島津本家家紋を持つ家柄で、出水から入る島津初代から繋がる島津光久の子孫です。
その寺山家が上級武士で上町に居住してましたが、明治五年に何かの訳有りで栃木県烏山に移住します。
烏山は私の岩山家の宗家がいた本拠地で、烏山から薩摩島津家に支えて薩摩入りしました。
私の曾祖父と西郷イトさんの岩山家の近所だったので、岩山家を頼っての移住ではないかと思います。
上級武士だった寺山修司の祖父の武道は東郷示現流で達人でした。
栃木県烏山に移住した寺山祖父が示現流達人なので、当時の警察署長クラスは薩摩出身の薬丸自顕流の方々が殆んどでしたから、直ぐに警察官に誘われ、次に移住した所が何と青森県唐牛で、警察官でした。
その孫が寺山修司で唐牛健太郎と仲良く成ります。
寺山家子孫は鹿児島市内の上町で共立学舎におり、岩山本家と同じです。
岩山分家の私の曾祖父と西郷イト達は冷水学舎で、現在は興国学舎になってます。
さらに追記
様々な人物と薩摩鹿児島、西郷南洲翁との関係性
唐牛健太郎の先祖が唐牛村で、函館から北海道大学に入学し、日本共産党に入り、学生運動家でした。晩年は鹿児島出身の徳田虎雄さんの要請で札幌徳州会病院設立に協力し、直腸がんで、鹿児島の先生に看取られました。
その生き方に西郷南洲翁を感じたそうです。
北海道大学は鹿児島で鹿大等々を創る岩崎先生が創った大学です。
鹿児島の黒田清隆が開拓長官で初代札幌県知事が調所広郷の三男の調所が北海道大学の初代校長でクラーク博士が教頭でした。
岩崎先生の2期生の同期が新渡戸稲造と内村鑑三です。
その弟子が四元義隆先生です。
大正14年産まれの三島由紀夫、
昭和10年産まれの寺山修司、
昭和12年産まれの唐牛健太郎、
この三人に共通するのが薩摩鹿児島、西郷南洲翁です。
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