西南戦争は、明治九年二月から計画された虐殺であった!?

西南戦争は、明治九年二月から計画された虐殺だったのか?西南戦争とはどのような戦争だったのか、陸軍分列行進曲を示し、考えてみましょう。


西南戦争はどのような戦争だったのか?


いよいよ明日は明治10年薩軍出陣の日です。仕掛けた謀略の戦略を考えると、三つの挑発に、次の四つ目、五つ目が準備されており、全てが挑発に乗るまで計画的に仕掛けてきました。

鹿児島が焼かれ灰に成り、女子供老人農民の生命と屋敷や田畑を戦争に巻き込まない為には、

三万人の薩軍が全軍出陣するしかありませんでした。

西郷南洲翁以下全て戦死、結局は全て城下は焼かれ

生き残りも監獄に送られ後に、

川路が凱旋し、その後、官軍抜刀隊として軍歌抜刀隊、陸軍分列行進曲が創られ、現在も自衛隊観閲式で使われています。学徒出陣でも国立で使われました。


皆さん、今一度、この歌詞を読み直して下さい。


西南戦争は虐殺だった?


城山最期の攻撃では、60000人対350人です。虐殺です。

200対1。


西郷南洲翁以下が政府に何かしましたか?

三万人の若者に学問と技術を教えてた3年間。

全て政府首脳の予想、妄想の世界で鹿児島に挑発謀略の限りを仕掛けて、この歌詞自体が捏造曲です。

西郷南洲翁率いる多勢無勢の薩軍ではなく、西郷南洲翁以下を讃えているようで、それを如何にも少数精鋭で倒したかのような内容の捏造です。

まさしく虐殺でした。

歌詞を読んで下さい。


西南戦争と陸軍分列行進曲


我は官軍我敵は

天地容れざる朝敵ぞ

敵の大將たる者は


古今無雙の英雄で


之に從ふ兵(つはもの)は

共に慓悍决死の士

鬼神に恥ぬ勇あるも

天の許さぬ叛逆を

起しゝ者は

昔より榮えし例あらざるぞ

敵の亡ぶるそれ迄は

進めや進め諸共に


玉ちる劔拔き連れて

死ぬる覺悟で進むべし

皇國の風と武士の


其身を護る靈の

維新このかた廢れたる

日本刀(やまとがたな)の今更に

又世に出づる身の譽

敵も身方も諸共に


刃の下に死ぬべきぞ

大和魂ある者の

死ぬべき時は今なるぞ

人に後れて恥かくな

敵の亡ぶるそれ迄は

進めや進め諸共に


玉ちる劔拔き連れて

死ぬる覺悟で進むべし

前を望めば劔なり

右も左りも皆劔

劔の山に登らんは

未來の事と聞きつるに

此世に於て目のあたり

劔の山に登るのも


我身のなせる罪業を

滅す爲にあらずして

賊を征討するが爲

劔の山もなんのその

敵の亡ぶるそれ迄は

進めや進め諸共に


玉ちる劔拔き連れて

死ぬる覺悟で進むべし

劔の光ひらめくは

雲間に見ゆる稻妻か

四方に打出す砲聲は

天に轟く雷(いかづち)か

敵の刃に伏す者や

丸に碎けて玉の緒の

絶えて墓なく失する身の

屍は積みて山をなし

其血は流れて川をなす

死地に入るのも君が爲

敵の亡ぶる夫迄は

進めや進め諸共に


玉ちる劔拔き連れて

死ぬる覺悟で進むべし

彈丸雨飛の間にも

二つなき身を惜まずに

進む我身は野嵐に

吹かれて消ゆる白露の

墓なき最期とぐるとも

忠義の爲に死ぬる身の

死(しに)て甲斐あるものならば

死ぬるも更に怨なし

我と思はん人たちは

一歩も後へ引くなかれ

敵の亡ぶる夫迄は

進めや進め諸共に


玉ちる劔拔き連れて

死ぬる覺悟で進むべし

我今茲(われいまここ)に死(しな)ん身は

君の爲なり國の爲


捨つべきものは命なり

假令(たと)ひ屍は朽ちぬとも

忠義の爲に捨る身の

名は芳しく後の世に

永く傳(つた)へて殘るらん

武士と生れた(うまれた)甲斐もなく

義もなき犬と云(い)はるゝな 卑怯者となそしられそ

敵の亡ぶる夫迄は

進めや進め諸共に


玉ちる劔拔き連れて

死ぬる覺悟で進むべし


皆さんはこれを読んでどう思いますか?


画像に関する解説はまた詳しくできたらと思います。