西郷隆盛と広島にまつわる漢詩と廃仏毀釈についてのお話
前回の記事より、また、この5ヶ月前の1月に土佐知藩事山内公に「一貫唯々」と「幾歴辛酸」の二幅を書き、この10月何故に有名な「幾経辛酸」の詩を書き、山形庄内藩知事酒井の殿様に進呈したのか。
西郷南洲翁は若き頃から幾度の辛酸を経て来ているのに何故このタイミングなのか。
ここ数年の間の出来事に対して書いている。
漢詩の中に、口や手紙にしない西郷南洲翁の本当の心情が隠されている。
漢詩は全て今一度、見直したほうが良いと思う。
9歳で妙円寺詣りの横井宿で横堀三助を他郷同士の喧嘩の仲裁とはいえ年長者を投げ飛ばし、
2年後の11歳の時に逆恨みされ千石馬場(現在のザビエル教会向かい辺り)で屋敷塀の隙間から不意討ちに鞘ごと叩かれ、
鞘が割れ右肘に致命的な刀傷を受け、
喧嘩両成敗の稚児でも死罪の薩摩故の自己治療の据え右肘の腱を斬り刀が使えない武家の嫡男と成り、
二才に成るまで三年間を学問だけに集中し反省する。
22歳の頃、先輩の病気見舞い用に吉野に行き猪を追い掛け、
殿様の御狩場に迷い込み、松明が萱に移り、一部を焼いてしまう失態処分で奄美に流刑され、
上役の迫田太次右衛門や赤山靱負、桂久武等々の嘆願で、
流刑から密偵で琉球台湾宜蘭の漁村に半年潜伏し、アヘン戦争の経過状況を偵察し、一年半後に帰藩する。
流刑出発直後に父の西郷吉兵衛が用頼み(御用人)していた赤山靱負が、
おゆら騒動で切腹し、台湾から帰藩した西郷南洲翁に父から赤山靱負の血染めの肌着を渡され、御狩場からの流刑密偵の成果より、
自己反省の為に草牟田誓光寺に隠居した無参和尚を、仲間数人と陽明学の近思録を輪読し、訪ねる。
和尚は、この前まで薩摩藩主歴代を祀る玉龍山福昌寺の和尚をしており、2ヶ月間だけ誓光寺に隠居中に、西郷南洲翁以下は態々、座禅石の上で禅を組む。
寺の板の間でなく、態々石の上で座禅を組んだのは何故か。自己反省である。
翌年、独り身は責任を感じないということで武村上之園住の伊集院スガを嫁に貰わせ責任を持たす。
19歳の頃、串木野や川内高城での郡方書役助の助手という身分で北薩方面の工事に従事し、汗を流す為に川内高城温泉に浸かりに行く。
この時に迫田太次右衛門や赤山靱負や桂久武等々の上役の計らいで川内水引郷の豪商を紹介され百両借金をし、3ヶ月後に更に百両を借金する。これは参勤交代や江戸詰め等々でなく、まだ島津斉彬公が殿様でない島津斉興公の頃で、禄を保ち役職住まいを保つ為に石高の買戻しが目的でした。
この1847年末~1872年6月に明治五年明治天皇御巡幸の折に返済しますが、この返済までの25年間には篤姫の将軍家御代所嫁入り支度金に莫大な金子が使われ、調度品と先頭が江戸城大奥に入る頃に最後尾がまだ薩摩藩邸を出て無かったと言われる程の準備を一手にした西郷南洲翁は一品チョロまかせれば二百両なと何とでも成るのにしません。
各藩主や家老とも御庭番で往き来し刀等々を貰ったりしますが、返済に充てず、自らの給金から返済します。
賞典禄の永世2000石(現在のお金で、毎年2億円)を貰いますが一切手を付けません。
他の方々が十万坪程の大名屋敷をただ同然で貰い居住しますが、西郷南洲翁は貰った屋敷内の長屋に暮らします。
広島との経過は、1864年2月28日に沖永良部島流刑から帰藩し、その11月2日に広島着、岩国、広島、2週間後に小倉、芦屋、小倉、下関、小倉、岩国、広島で1週間。
私の曾祖父の姉イトさんと結婚し10日後に出発、1867年10月4日に大阪京都で、薩長芸の三藩挙兵盟約案をねり、盟約を結ぶ。
12月9日に薩摩、安芸、尾張、越前四藩の藩兵に出動命令を出し、王政復古の大号令発布、小御所会議。
1868年1月3日に鳥羽伏見の戦いに至り戊辰戦争に突入し、圧倒的な勢力の幕府軍を相手に全面戦争と成る。
この戊辰戦争で次男の西郷吉次郎さんが幼児二人を残し新潟の五十嵐川で重症戦死し、妹コトさんの市来家息子達親族が総出で出陣し嫡男が新潟で戦死、次男四男が西南戦争で戦死、明治三年に米国留学させた三男が明治10年西南戦争の最中に病死する。
この三男の市来政直に書いた書が「示外甥政直」で、この五行目の「耐雪梅花麗」が有名なのは、広島カープの黒田投手引退試合でカープ全員ユニホームに、この漢詩を刻み、黒田投手の座右の銘として知られた。西郷南洲翁の漢詩です。
小さな家族の細やかな幸せを追求し、
大切に守りたい西郷南洲翁と、権力財力に物を言わせ、
改竄、捏造、シュレッダーで歴史を勝てば官軍と言われ、
無防備な薩摩に策略謀略を掛け、罠に掛かるまで仕掛け、結果武力進行し、
女子供老人まで巻き込み、家屋を武器で焼き払い、
生命と財産を簡単に破壊ぶち壊す独裁者、最高権力者とは、神と獣、天使と悪魔、
三歳も年下で川向こうから七歳で引っ越し、
三歳下から親友で幼馴染み等と平気で言った、頭は悪く字が綺麗、リーダー経験無し、
武道は全く練習せず危ない刀を抜く場面には居ない、
親兄弟身内や部下も誰一人信用しなかった只の生き血肉を喰らう獣との違いは、
我々の先輩先人が「西郷どんは神様、大久保如きは五万とおる」「走狂人、不走狂人」と言ったセリフを思い出す。
決して一緒に語らず、同じ土俵では無かった。
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