西郷隆盛と広島にまつわる家紋についてのお話
隆家と奈良の都を中心に持つ一族で、南北朝が別れ、その南朝側は福岡太宰府に左遷され、
北朝天皇側が京都におり、南朝側の子孫の藤原則隆が福岡から兵站基地として後方の熊本菊池に居を構え兵站で支える菊池則隆と名を改めて、
その長男の菊池政隆が名を西郷と改めて西郷政隆で西郷家が始まり、
西郷南洲翁が32代です。菊池から阿蘇信仰の青井阿蘇神社の違い鷹
菊池一族は並び(揃い)鷹と違い鷹の家紋を持ち、菊池七城の増永城の城主で南朝側天皇から身内の大河平一族と同じ二枚菊の葉抱き菊の家紋です。
それ以降に忠臣蔵や曽我兄弟仇討ちと並び歌舞伎物として定着する物を薩摩は西郷南洲翁の時代もコッソリとしており、我々は現在もその三大行事を継承し顕彰しています。
赤穂藩は元々広島藩配下の安芸藩の芸州で、家紋は違い鷹です。
資本主義と帝国主義の破壊と再生生産には、大蔵卿の彼の僧侶は農民か兵隊に、
寺社の風水上、最高な地脈気脈の土地に建つ寺と墓地墳墓、莫大な財宝を持つ寺社、
檀家の集金力は、邪魔者でしかありませんでした。
魂抜きに堀や川に仏や仏像石像を投げ込まさせ破壊仕捲りました。
青井阿蘇神社(国宝、肥後国一ノ宮)は大同元年806年に創建され、初代神武天皇の孫神で健磐龍命の息子の第七代孝霊天皇が阿蘇神社の祭神に健磐龍命で創建し肥後の国造りを始めました。
その阿蘇神社の分霊で分祀したのが青井阿蘇神社です。
また、鷹の羽家紋も藤原一族の中で、後醍醐天皇等々の武の象徴として、元々は冠に鷹の羽を着けた事から鷹の戦いに対する強さを表し、阿蘇、菊池、広島、安芸、赤穂等々が用います。
西郷家家紋が鷹の羽家紋から抱き菊に菊家紋に成る過程は未だに解明されてませんが、
鎌倉幕府を築いた時代の後鳥羽上皇が菊の花弁が陽光に似ている事から菊花弁を使い、
南北朝が別れる後醍醐天皇が鎌倉幕府から奈良に戻り、
鷹の羽家紋に繋がる阿蘇や広島等々に与え、菊池一族が用い、
北朝天皇側の京都の天皇が孝明天皇まで、菊家紋と吉野桜家紋と鷹羽家紋を嫌い、
西郷南洲翁から南朝天皇の明治天皇に抱き菊に菊家紋の菊を明治四年に皇室家紋として捧げ、それ以降は皇室以外の菊家紋使用が禁止され現代に至ってます。
桜家紋も江戸時代幕末明治維新の明治四年までに表家紋で使用した藩や武家は極一部で殆ど使用されず、
西郷南洲翁が軍隊、警察、学制からの小学中学、大相撲協会、
招魂社(全国招魂社、東京招魂社)から護国神社や靖国神社も菊を護る桜家紋、
自衛隊等々、西郷南洲翁ゆかりの所だけが桜家紋を使用しています。
因みに、西郷南洲翁が明治四年4月に御親兵の常備兵四大隊を率い東京に上京し、6月25日に平隆盛の名で参議の辞令を受け、
西郷隆盛の名で正三位に叙され、7月14日には大久保が計画した廃藩置県を断行します。
これにより藩が県に成り、各大名や殿様方々に代わり県参事、西郷南洲翁は大久保大蔵卿、岩倉外務卿、木戸特命全権大使と成り、11月に岩倉具視、大久保、木戸、伊藤等が岩倉遣欧使節団で出航し、実質の留守新政府のトップとして手腕を発揮し、国民の為の政治をします。
ここで重要なのは平隆盛で辞令を受けた名字です。
廃仏毀釈を大久保が断行させ壊し、西郷南洲翁が宗教の自由でキリスト教解禁、
明治7年には鹿児島に一向宗の浄土真宗等々を受入れ、大久保のした廃仏毀釈の真逆な施策な寺社再興に尽力するのも、安芸の宮島は破壊されましたが、厳島神社を再興させました。
その為に平清盛が築いた神社を平隆盛の名で厳島は助かりましたが、宮島全体は破壊されました。広島とは鷹羽家紋で縁が深いのです。
西郷南洲翁が何故に、この時だけ平姓を名乗ったのか誰も究明出来ていない。
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