西郷銅像のあまり知られていない秘話を紹介してみました
西郷銅像に関する豆知識、秘話をご紹介しています。西郷隆盛や東郷平八郎についても言及し、銅像のに関するあまり知られていない話を解説しています。
尊敬する郷内の20歳も後輩の東郷平八郎は西郷どんの軍服姿を見ずに英国留学した。
西郷銅像の銅像秘話とは
銅像正面は右30度に向き正面は右斜め下。
その台座巨石の中央から直角に、その斜め前2個目の巨石に、東郷平八郎の直筆の銅盤がある。
西郷隆盛とは二十歳違いで、西郷どんの祖母の大河平キミさんの大河平家を通じて東郷さやんとは遠縁に成る。
西郷どんの六代先祖で繋がり、東郷さんの父からの言われた「西郷に付いていけ」。
誕生地は百m、七歳で吉之助の弟吉次郎さんに読み書きを習い、東郷さんの稚児時代は、名君の島津斉彬公の指示で日本中を調整して回り、すれ違う。
十四歳で元服初陣が薩英戦争に従軍したが、西郷どんは沖永良部島の牢屋ですれ違い、西南戦争では欧米に留学中で、帰還し兄の小倉さんや、同級の郷中の仲良しだった西郷小兵衛さん達と行動を共にしたかったが、大久保から英国残留を命じられ、翌年帰還して、西郷どんや兄や小兵衛さんの死を聞いて自殺まで考える。
銅像建立に対し、体力支援、募金、安藤に直接名指しで「同郷の安藤がよか」と東郷さんより45歳も年下の駆け出しの彫刻家に依頼し、東郷さんが一番尽力する。
完成したらと「西郷隆盛像」と書を描き、安藤に預けてあった。
上野が似てないと西郷どんの妻イトさんが独り言を呟いた為、似ている銅像をと、世界中を二年かけ銅像研究し、築山造りの庭園を設計、計画、作製中、渋谷のハチ公銅像を嘆願され、二年かけ完成除幕の翌月、東郷平八郎他界。その二年後、西郷隆盛銅像完成、翌年除幕式。
安藤はハチ公作製の二年がなければ、造らせて貰った恩人で大先輩で露国艦隊を撃破した東郷さんに西郷銅像の完成品を見せることが出来なかったことを悔やみ、西郷隆盛像の東郷の書を銅像前の二個目の巨石に上向きにはめ込んだ。天国の東郷さんに安藤さんが見せたかったのです。
その東郷平八郎元帥の神社を鹿児島に計画するが、東京の関係者軍人官僚から、東郷さんの原宿の屋敷に東郷神社が建立され、遺髪を鹿児島と江田島に持ち帰り、江田島では軍神として奉られ、鹿児島は現在の中央公民館(昭和天皇即位祝いで、大阪中之島の中之島公会堂が大正天皇即位祝い)。
造ったのは片岡靖さんてま鹿児島も中央公会堂として造り、現在は鹿児島では昭和天皇と島津の良子妃殿下との成婚祝いと言い、二階のバルコニーのある三部屋が貴賓室で西郷銅像側の壁に空間があり、当時、そこに祭壇が創られ、東郷さんの遺髪を安置し、墓地が多賀山に決定し、巧妙前から列を組んで見送り、その後、東郷銅像を持ってきて、山頂に立っている。
西郷隆盛銅像は斜め下から城山山頂に聳え立つように見えるよう、築山の高さを築き、両雄が左手に刀、右手に帽子を持ち、西郷どんの右脇腹には筋肉を入れ、東郷さんの左脇腹には勲章かまあり、城山と多賀山山頂に両雄聳え立つ金剛力士像、仁王様で、阿と吽で薩摩の福昌寺と清水城、背後に連なる日本列島の門の両側で魔除け厄除けとして、薩摩日本を護って立っている。
見ている先は正月初日の出が登る正月の真東、鶴丸城も同じく正月初日の出の方角に鶴翼の陣形で城と城下町が創られている。
まさしく、西の西郷どんのと、東の東郷さんで。
鹿児島には日向薩摩に南郷、北郷もある。中央は何処だったのか。知る善しもない。
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