篠原国幹陸軍少将の熊本吉次峠での戦死について話してみました

熊本吉次峠での薩軍一番大隊長の篠原国幹陸軍少将の戦死について解説しています。篠原国幹陸軍少将の身に何が起こってしまったのか述べています。


御親兵、近衛兵の隊長だった篠原少将に、皇居警護の近衛兵薩摩出身者を相手にさせた卑怯な手段。


熊本吉次峠での篠原国幹陸軍少将の戦死について


本日、明治10年3月4日は、熊本吉次峠で、

薩軍一番大隊長の篠原国幹陸軍少将が戦死しました。

2月27日には一番大隊一番小隊長の西郷小兵衛さんが玉名で戦死し、

大隊長と副大隊長(一番小隊長)を失う一番大隊は壮絶な第一線での戦いでした。


近衛警護の近衛兵を繰り出し、幼さない頃からの仲の篠原少将と野津少将、弟の野津大佐で、天皇を護る近衛兵を病気療養で階級役職を持ったままの近衛隊長の篠原少将の正面に向かわせ、篠原さんが撃てない事を承知で命令された薩摩出身者達の想いや気持ちは辛すぎる。


官軍初日は官軍の大敗と成りますが、薩軍に取っては同郷の後輩で一番信頼安心出来る右腕の篠原陸軍少将(病気療養扱いで帰還)と、末弟で20歳年下の西郷小兵衛さんを失います。

小兵衛さんと同郷で2ヶ月後輩が、大久保の命令で帰国させて貰えなかった東郷平八郎元帥です。


官軍の進撃を阻み

「進む者必ず傷付き、退く者必ず倒れるに至る」


有り様でバタバタと官軍が倒れていったといいます。


吉次峠に外套を翻し、銀装の刀を帯びて指揮を取り、下方から対峙して出てきた江田少佐は元部下で篠原少将の性格を知り尽くしており、狙撃手を数名選抜し命中させたのが同郷の山之口馬場(現天文館)出身の村田経芳陸軍軍曹で、後に村田銃(三六式歩兵銃)を開発考案しました。


吉次峠は地獄峠?


江田少佐も、この同日、同郷で薩軍狙撃手に狙撃され戦死して官軍は総崩れと成りました。

吉次峠だけで55人の戦死者を出し官軍は吉次峠を「地獄峠」と呼び再び攻めることをためらいました。


薩南血涙史より篠原国幹陸軍少将の様子


君見ずや、吉次の険は城よりも険なり

突兀、空を摩して路、崢嶸…… (佐々友房)

篠原、身に陰面緋色の外套を被り手に烏金装飾の大刀を提げ、始終戦線に挺立して自ら率先風励す。

英姿颯爽、遠近目を属す。


(篠原は裏面が緋色の外套を着て、手に赤銅装飾の日本刀を提げ、始終最前線に立ちはだかって自ら部隊の陣頭指揮に当たった。その颯爽とした勇ましい姿は、遠近問わずあざやかに目立った。)

(『薩南血涙史』)