西南戦争における田原坂攻防戦にはたくさんの戦死者が!?

田原坂攻防戦では、たくさんのかち合い弾が出るほど激しい銃撃戦でした。田原坂攻防戦では薩軍にたくさんの死者も出てしまいました。


3月4日、いよいよ田原坂攻防戦です。

この初日に官軍は三ノ坂まで突破しました。


歴史上は、一ノ坂、二ノ坂と17日昼夜掛けて徐々に突破してきたように成っていますが、研究は進み、熊本植木の某先生や冨田先生が現地調査や写真、証言等々を念入りに永い年月を掛けて調べあげ、現在は、全てハッキリしています。


写真は田原坂の当時のものだった?


鹿児島の事は私が、熊本の事は植木田原坂生まれ育ちの先生が一番詳しいに決まってます。

貼りつけた写真は、戦後の物とされてましたが、実は当時の写真だったのです。


詳しく見ると、小さな墓が写っています。写真が撮られたのは田原坂の戦いの直後で、戦い初日から写真のような風景だったのです。


一ノ坂の両側は森林に囲まれた田原坂入口ではありませんでした。

この写真は幕末から有名な長崎銀屋町生まれ育ちの写真家で上野彦馬です。

当時39歳で職業写真家で、明治10年4月1日ごろ撮影し、まだ1ヶ月も経たない状況の証拠です。


田原坂陥落の3月20日からは2週間足らずで、三ノ坂入口まで剥き出しの段々畑でした。


田原坂攻防戦における戦死者


この日から1日100人の薩軍が戦死していった数に成ります。

薩軍官軍の17日間の戦死者は3500人、西南戦争全体の四分の一が田原坂戦死です。

南洲墓地の4人に1人が田原坂という勘定に成ります。


使われた実弾の数は17日間で1000万発、1日60万発と言われ、これだけの銃撃戦は世界に類が無いほどでした。


かち合い弾が田原坂での激しい銃撃戦を物語る


[かち合い弾]と言われる双方の弾がぶつかって貼りついて落ちた弾がゴロゴロ出土しました。

今でも弾や弾倉、弾薬箱ごと出土します。


通常、音速で飛ぶ弾がぶつかって落ちる可能性はゼロに近いくらい官軍は1分間に6発撃てる新式スナイドル銃で撃ちまくり、薩軍は1分間に1発の旧式エンフィールド銃では、撃てば、かち合い、頭を出し構えて射撃すれば自分が撃たれる状況でした。


かち合い弾は、少しでも角度や発射タイミングが音速でズレてかち合うと跳弾となり、はじきます。


擦れ違い弾に成れば、自らが戦死する状況でした。

鹿児島薩摩出身の方々の4人に1人、先祖が田原坂で戦死しています。

皆さん真実の歴史を見付けましょう?