ロシアのウクライナへの軍事侵攻を受けて、西郷南洲翁が望んだ平和とは

西郷南洲翁や東郷平八郎元帥や山本五十六大将が望んだ平和とはどのようなものなのか、考察しながら、国の平和について考えてみました。

2月26日は、戦争と平和、過去と現代。では有りません。

先日からのロシア軍事進行を考えると、オリンピックやコロナ等は全く関係無く突然、平和な市民生活が戦場に成るのです。

現在も他国だけでなく、いつ日本にも外交や口では解決しない軍事進行がある。

始まったら、誰がいつ如何に終わらすかが問題です。

岸田文雄首相が公邸に入居した昨年12月、記者団から妙な質問が出た。

「幽霊は出ましたか」。

首相は「今のところ、まだ見ておりません」と応じた。

オカルトめいた問答には訳がある。

旧首相官邸だった今の公邸は1936年の二・二六事件の舞台になり、
当時の岡田啓介首相の義弟らが殺害された。

そんな建物だけに、「出る」とのうわさが付きまとう。

私の父、父兄、祖父は磯の敬天舎同人で、鹿大や鶴丸、川内、川辺、加治木、福山高校を創ったクラーク博士の2期生の岩崎行親先生が創った大人の二才以上の舎で、杉浦先生、岡積先生、四元義隆先生等々、右翼も左翼も産み出しました。

敬天舎の岩崎先生が書かれた国体詩は、当時の鶴丸高校や甲南高校等々では毎日復唱素読されてたそうです。

「或いは共産を唱え、或いは民部、一利一害、空論に処す。」は何を伝えたいのか、要するに行き着く先まで行く前に、もう一度、国を思う原点に戻り話し合いなさい。

敬天舎から、血盟団、515、226事件にも首謀者を出し、磯の交番は公安の監視用に出来ましたが、

「外で監視せず中に入って監視しなさいと、公安警官三人が、逆に共感し敬天舎同人になりました。」

事件と大久保利通の次男牧野暗殺未遂で監獄刑期が半分になり、近衛文麿首相の恩赦で出獄した四元先生は226で留めを刺されなかった為に、最後の鈴木首相で終戦でした。

その鈴木貫太郎首相の第一秘書と成り、玉音放送を流し戦争を終わらせる働きをしました。

事件時の首相秘書官は両親が鹿児島出身の迫水久常さんでした。

戦争の発端と終戦双方に名を残すことに成りました。

「若い人々が無鉄砲な行動をする危険を陰に利用して」その後の軍が政治の主導権を握り、「日本を大東亜戦争の悲劇に追い込んだ」と、戦後の著書「機関銃下の首相官邸」で無念さをにじませていた。

最近では映画「日本で一番永い日」等にもなり、
犠牲者や処刑された青年将校ら19人は、歴史の転換点となった事件をどう振り返るのか。

幽霊は怖いが、戦争を避ける道を教えてくれるのなら会ってみたい気もする。

迫水 久常(さこみず ひさつね、1902年(明治35年)8月5日 - 1977年(昭和52年)7月25日)は、日本の大蔵官僚、弁護士[1]、政治家。位階は正三位。勲等は勲一等。

いわゆる「玉音放送」を起草した人物の一人として知られる。

内閣書記官長(第51代)、総合計画局長官、貴族院議員、衆議院議員(2期)、参議院議員(4期)、経済企画庁長官(第9・10代)、郵政大臣(第17代)、鹿児島工業短期大学学長(初代)などを歴任した。

四元義隆先生は、中曽根康弘総理から細川総理まで七人もの総理を生み育てました。

総理によっては善し悪しを問われますが、政権が永く長生きした方々は、色々な場面局面で状況が違い、賛否両論あります。

全て選んだのは国民一人一人で、責任は選んだ国民にあるのだと思います。

それは今回の某国も同じこと、一人一人が責任を持つ必要があると思います。