鹿児島弁は武家公家言葉で他県の方言は農民が使っていた方言だった?

鹿児島が変では無く、他県が農民の方言で、鹿児島弁は武家公家言葉であるということについて、歴史的な観点から解説しています。


農民と武家公家の歴史的な違い


明治維新まで続いた天皇将軍制度。武家は謀反を起こさないよう頻繁に領地換えや、取り潰し。薩摩以外の藩や武家は、各藩の3%~5%、農民が9割を居り、農業で年貢を納め、農民は移動しない。その農民の言葉が各県の方言に成っている。


薩摩と武家に関する歴史について


薩摩はというと、隼人族が畿内に移住させられて500年後、武家は藤原摂関家の平家だったところに、源頼朝の源氏が坂東武者と一丸と成り、平家を滅ぼす。

そこから400年間、鎌倉を中心にした下克上の鎌倉幕府、足利幕府と移り変わり、戦国時代を迎える。この400年で、薩摩の地は、地の果て、900年代に菅原道真公流されて福岡太宰府。そこより遠い地の果てまで守護職や地頭で領地を換えられた薩摩の武家武士は全て左遷組、二度と京都や鎌倉には登れない、下克上で、いざ鎌倉で馳せ参じても一番遅く手柄も残ってない任地。

この400年の歳月の戦乱の中で、一族根絶やし時代に、一族が生き残れる、武家武士を募集中なのは薩摩だけでした。

戦乱の世で、負け破れ逃げ、落ち延び逃れて、隠れ潜める地が薩摩に全国から結集し、「今に見ちょれ」といつの日か京都や鎌倉に凱旋する負けを決して認めない薩摩が数百年掛けて築かれました。


鹿児島弁という方言と武家公家の言葉の関係性とは?


言葉は、何時でも返り咲いた時の為に、武家公家言葉を持ち帰り、各々あった地方の農民の方言と混ざり、微妙に地方で違い、元々は鹿児島城下町に原点の武家公家言葉が地方に行く流れでした。城下には農民は居ませんから。


公家言葉が「おじゃる」その活用形が、おじゃった、おさいじゃした、おじゃんせ、じゃらい、じゃっど、じゃっじゃっ等々です。

武家言葉が「申候、申し候う」の「申し」が、おじゃったもんせ、あたいがしもんで、しもんそ、しもんが、もす、電信電話発祥の探勝園の電話は「もしもし」は鹿児島弁。


面白鹿児島弁が、

フランス語に聞こえる「うんだもしたん」、英語に聞こえる「割った芋、いつ居っとな」、朝鮮語に聞こえる「兄ょ早よせよ」等々があります。


いざ鎌倉から、関ヶ原の闘いまで400年、木曽三川治水工事借金まで550年、京都に登った幕末まで650年、現代まで800年。

薩摩無しでは、徳川幕府240年戦乱の無い平安な世が続き、藩や一族全て掛けて幕府やを倒そうという藩は有りませんでした。

薩摩の魂は、全国からの武家が移住し精神を保持し、「今に見ちょれ」精神でした。

その永い歳月を掛けて得た、美味しいとこ取りした一部の薩摩の裏切り者達が、現代まで子孫を政界財界財閥に残り、独り占めしてきました。