西郷家の妻はどのような女性なのか、親族が語っています。
IMG_6072西郷家の女性は、どのような性格で、どのような人物なのか。西郷家の家系について触れながら、主に西郷小兵衛さんの妻マツさんについて、解説しています。
西郷家の妻たちのの性格について
西郷家の女性たち
から「女の道は一本道に御座います。定めに背き、引き返すは恥に御座います。」
薩摩の女は強い。
西郷家も岩山家も若松家も市来家も大山家も有馬家も、強い女、妻が支え、夫に何かあれば、女が主と成り、稼ぎ子を養う。
これが薩摩女士道。
薩摩は男尊女卑では無く、男を威張らせて、女は3歩下がって、掌で転がし操縦して、いざと成れば「死んで来い。」と言う女の強さがある。
今も、威張ってる男の妻は、もっと威張ってるか、我慢強いか、どちらかです。
京都の祇園や江戸の吉原から妾を連れて帰る勇気のある男は1人も居ませんでした。
西郷小兵衛さんの妻マツさんについて
本日2月27日は明治10年、この日に高瀬(玉名)で篠原国幹一番大隊一番小隊長(副大隊長)の西郷小兵衛さんが29歳で戦死し、妻のマツさんは19歳で子供二人居ました。
西郷(有馬)まつ、松、マス。
安政4年(1857)生まれ、昭和18年(1943)3月6日没。西郷南洲翁の末弟小兵衛(こへえ)の妻。
父は有馬糺右衛門、母は大山巌の姉国(くに)。3人兄弟の末子(兄藤之助、姉みね)。
明治6年(1873)11月、西郷家の四男西郷小兵衛(西郷隆盛の末弟)と結婚し、西郷家(武屋敷)に入る。西郷南洲翁が帰還した時に小兵衛25歳、松15歳。
名はマスであったが、西郷南洲翁の次弟吉二郎の先妻(どちらも既に故人)の旧名と同姓同名(有馬マス)であったため、呼び名をマツ(松子)と変えた。
西郷南洲翁は10月23日、明治政府に辞表を出して下野(げや)した。小兵衛は11月6日、西郷南洲翁は11月10日に鹿児島に帰って来た。松子はのちに「(西郷さんは)いつも面白い事を言っては家の者どもを笑わせていた」と語っている。
明治9年(1876)5月、幸吉が生まれる。幸吉は生後まもなく掛かった脳膜炎により、障がいを持っていた。
明治10年(1877)2月27日、西南戦争に出征した西郷小兵衛が、熊本県高瀬(玉名市)で戦死(29歳)。当時、松子はまだ19歳で、銃弾に胸を撃ち抜かれた西郷小兵衛を運ぶために薩摩兵が雨戸を貰い受けた民家(橋本家)宛に、丁寧な礼状を書いている。
明治10年(1877)2月29日、イトさん達と犬の攘夷家を連れ武屋敷を出て永吉村(日置市吹上町)坊野(ぼうの)に避難する。同年8月、西別府(にしのびゅう、現鹿児島市)にあった西郷家の野屋敷に逃れる。
9月24日に西郷南洲翁が自決した翌日、従僕の吉左衛門(きちざ)が西郷南洲翁の死を伝える。のちに松子が語った、「隆盛の最期を見届けませぬから、その模様は話しませぬ。
川村さん、大山さんの伝言などありませぬ」という強い言葉でした。政府軍の川村純義は西郷南洲翁の母方の従兄弟ハル(春子)の夫であり、大山巌は西郷南洲翁の父方の従兄弟で、かつ松子の叔父(母の弟)であることを含み、敵に言うが如く強い口調で言った。
ちなみに西郷南洲翁が自決した日の大山巌の日記は「午前四時各旅団より二中隊を選抜して進撃す。戦闘一時間余にして敵の首領ら悉く(ことごとく)斃れ、七時過ぎ戦闘全く終わる。
午後、大いに雨降る」のみで、翌9月25日は旅宿で『相撲』を見て楽しんでいる。これが本当に従兄弟なのか。
西郷小兵衛の墓は現在、南洲墓地(鹿児島市上竜尾町)の西郷南洲翁の墓のすぐ背に西郷琴の息子二人に挟んで眠っている。
明治12年(1879)頃、戦争で官軍に焼かれた為に西郷従道の資金により武屋敷が再建される。糸子に家の再建の援助を強く断られた「敵の情けは要りません」。故に西郷従道が「幸吉に家を造ってやる」と松子に申し入れ、3歳の障害のある幸吉名義で武屋敷を建てた。松子は糸子が強く断ったことを知っていたが「姉さんたち(園子と糸子)と一緒に暮らすためには、敵だろうが大威張りで世話になる」と言って泣いて受け取ったと伝わる。
明治29年(1896)5月、西郷南洲翁の妻糸子(53歳)が武屋敷を出て、東京の寅太郎さんの結婚式の為に上京するが政府から鹿児島に帰して貰えず、仕方なく寅太郎邸へ移る。
明治29年(1897)11月13日、同居していた園子(吉二郎の後妻)が亡くなり(推定55歳)、武屋敷は松子と幸吉のみとなる。
明治31年に上野の西郷隆盛銅像除幕式後も鹿児島に帰して貰えず80歳で亡くなるまで寅太郎家と妻ノブが離縁 されるまでと、三男(イト次男)の午次郎家で暮らし淋しい生活であった。
大正5年(1916)12月10日に没した叔父大山巌(74歳この時の大山巌の肩書は「議政官内大臣元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵大山巌」である。
西郷南洲翁が正三位。
この差は何なのか疑問が残る。
大正7年(1918)1月6日、西郷小兵衛の子の幸吉が亡くなる(40歳)。
大正10年(1921)、西郷南洲翁の長男寅太郎の遺児たちが武屋敷に同居する。大正8年(1919)1月1日に52歳で没した西郷寅太郎、その遺児たちは、母信子が西郷家から追い出され、博打の借財のため東京の屋敷も売却されたため、鹿児島の武屋敷に移って松子と一緒に暮らし、鹿児島二中(現甲南高校)ほかに通った。
大正15年(1926)夏、寅太郎の子供達、菊次郎(西郷と愛加那の子)とその家族らと一緒に撮った集合写真が残っている。菊次郎は大正9年(1920)退職後、武屋敷に近い鹿児島市薬師町に住み、松子や寅太郎の遺児達、みつ(西郷の弟吉二郎の娘)、岩山家(西郷の妻糸子の実家、私の父方)等とも親しく付き合った。菊次郎・久子夫妻には15人の子(うち2人は夭折、三男1人は除籍)があった。菊次郎は昭和2年の西郷隆盛没五十周年祭に参列し、昭和3年に没している。昭和12年の西郷隆盛銅像を見ることは無かった。しかし、西郷マツさんと、私の曾祖母の岩山トクさんは銅像を見ている。
昭和18年(1943)3月6日没84歳。松子の墓は鹿児島市常盤の西郷家先祖墓地にあり、西郷菊次郎家の「西郷家之墓」と向かい合わせる「西郷家之墓」に、子の幸吉がある。
私の曾祖母の岩山トク婆さんは昭和27年まで永生きし97歳でした。
西郷南洲翁と明治8年に日当山温泉に行ってた婆さんは父と20年暮らしてました。
7歳までは都城官舎産まれ育ちで、祖父岩山直養陸軍少将が鹿児島に戻り、南風病院にあった第六師団分営に勤務し、一中鶴丸の配属将校で、南洲神社周辺全ての土地をトク婆さんが坂元家から持参金で持ってきて所有し、現在の今給黎病院が岩山屋敷でしたから、学校は大竜小に入学します。
トク婆さんが97歳で永眠したので現代の医療があれば百歳超え間違い無いです。
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