西南戦争は南洲翁が自ら指揮し、桐野利秋は、その意図に従って命令しただけだった!?

西南戦争は西郷南洲翁が自ら指揮を行い、桐野利秋は西郷南洲翁の意図に従って命令していただけだったのか? 今回は西南戦争における薩軍と官軍について考察しています。


桐野 利秋(きりの としあき、天保9年12月2日[2](1839年1月16日) - 明治10年(1877年)9月24日)は、日本の武士(薩摩藩士)、陸軍軍人。諱は利秋、通称は半次郎、桐野に復姓後は信作(晋作、新作)。初め中村 半次郎(なかむら はんじろう)と称した。

桐野利秋の書と伝えられる掛け軸など複数に、「鴨溟(瞑)」という雅号が記されている。Wikipediaより引用 20220223


薩軍と官軍の戦いについて


明治10年2月22日の朝3時に薩軍全軍が川尻を出発し、二軍に別れて進撃し、熊本城の官軍と、実質の戦争突入にさせられました。


肥後藩士たちは薩軍と官軍のどちらに着くのか?


既に熊本城は焼け落ち、宇都櫓だけが残り、城下にも放火され、それまで、薩軍官軍どちらに付くか三つ巴の議論をしていた細川の肥後藩士も、260年も維持運営してきた天下の名城を焼かれ、街にまで放火されて、やっと決心が付き、熊本隊が健軍神社で2月22日約2000名が蜂起、同じく熊本共同隊が保田窪神社で約400名が蜂起し、竜口隊が久本寺で約150名が蜂起し、肥後細川家の武士家臣が全て薩軍に合流します。


谷 干城(たに たてき / かんじょう、天保8年2月12日(1837年3月18日) - 明治44年(1911年)5月13日)は、日本の武士(土佐藩士)、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍中将。栄典は正二位勲一等子爵。Wikipediaより引用 20220223


豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人。秀吉に従って各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国の大名となる。文禄の役の際の京城攻めでは、出世を競う小西行長と一番乗りを争った。秀吉没後は徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いでは東軍に荷担して活躍し、肥後国一国と豊後国の一部を与えられて熊本藩主になった。明治43年(1910年)に従三位を追贈されている。Wikipediaより引用 20220223


現在も熊本城に谷干城と加藤清正公の銅像しかないのは、熊本県民は納得しているのだろうか?


西南戦争で戦犯にならなかったから銅像が建てられた?


秀吉の村人だった足軽上がりの加藤清正公も孫で滅び、250年維持運営してきた細川家の歴代の殿様を語れなくされ、銅像も無く、城内に加藤神社を建てられ、細川家歴代藩主を祀る神社も墓地も、現代人は知らず、城焼きした谷少将の銅像を建てられた本当の理由は、賊軍と成った熊本士族が全て細川肥後藩士だったからで、薩摩と違うのは、官軍に肥後藩士が極少で殆んど居らず、薩摩は島津の藩士が敵味方トップにおり、島津の本家殿様一族を両軍に関わらせずに、現代まで島津本家一族は、旧華族にも14家も入り、日本最大の公候伯子男爵一族で、島津の会社まで栄華を保っているのは、西南戦争での戦犯に成らなかったからです。


この日ここから先は話が長く成るので、次の機会にタップリ真実を本当の根拠証拠証言と幾人かの階級役職立場、指揮下の日誌を提示してお話します。


次の記事

https://k10cafe.herokuapp.com/detail/18/