熊本城炎上と鶴丸城炎上の謀略捏造の真実は何か考察してみました
熊本城炎上と鶴丸城炎上には、謀略の捏造がありました。そんなの謀略捏造の真実は何か考察しています。西郷南洲翁と炎上、捏造の関係性についても解説しています。
熊本城の炎上と薩軍について
明治10年2月18日に横川麓山本弥右衛門方に宿泊し、
翌19日8時に多い街道積雪の為に進路を栗野から吉田に変更し、吉田町東郷熊助宅に宿泊する。
薩軍は出陣から二手に別れ、西目出水街道と東目から大口街道を進軍し、水俣で合流し八代、川尻に向かう予定で、出水西目街道隊は水俣を出発し三太郎坂、貫太郎坂越えして、湯ノ浦、佐敷の専妙寺に宿泊する。
この2月19日先鋒隊が小川駅に向かう途中、午後4時頃から熊本城方向からの煙硝が天を衝くねが見え、官軍が城と城下に火を放ち戦争をする覚悟を知る。
当初の予定なら水俣で合流する筈が、先鋒隊も、西目街道の偽主力、東目街道の本主力も、誰も経験の無い大雪の降雪に阻まれ、
2月21日に先鋒隊が川尻に、西郷大将率いる本主力は八代町牧武次郎宅に宿泊、翌22日乗馬で宇都宿の病院に宿泊する。まだ川尻までたどり着いてない一説と、21日夜に川尻外城町泰養寺で諸将と軍議をした一説がある。この時、明治天皇から征討令が出され賊に成った事を知り、黒の略装軍服を泰養寺向いの山本大次郎宅で脱いで寺で切腹自決を図ろうとしたのを桐野少将に止められ、前以て、農兵官軍の兵隊が戦線離脱しない為と戦中城が燃えると逃げ場を失う為に熊本城を炎上させ、薩軍に使用、防壁に使われないように城下を焼き、官軍にも熊本県民にも、明治五年の御巡幸で廃城予定を救い、西郷南洲翁先祖の菊池が築き、加藤が改築増築し、歴代の細川藩主藩士が護ってきた熊本城に申し訳なく、腹に手を掛けようとしました。予定通りであれば熊本に薩軍が全軍入ってから焼く予定が、想像を越えた神雪が吹き、進軍到着が2日遅れに成った為に、前以て薩軍放火にする段取りがくるい、予定命令通りの日時に焼いた為に、現在では、官軍が焼いたと明言され、証拠や証言が残りました。
西郷南洲翁は本当に鶴丸城を焼いたのか?
これと全く同じ事を同じ命令権者が、同じ手法で、明治6年鶴丸城を焼きます。西郷南洲翁が10月23日に朝鮮に行く決定が一転廃案にされ下野し、11月10日に鹿児島に帰還し、続々と屯田兵や警視隊や御親兵まで千人が帰還します。この1ヶ月後の西郷南洲翁の誕生日の12月7日に鶴丸城炎上と捏造されました。実は鶴丸城絵図には10月18日炎上と描いてあります。10月12日に参議に返り咲き、西郷南洲翁以下を追いやった張本人が居ます。前以て1ヶ月前に焼いて下野させ、西郷南洲翁以下が焼いたように捏造されています。たまたま焼け、全く調査も無く、謀略捏造されたままです。一国一城の薩摩の巨城鶴丸城が焼けたで済む話ではありません。
コメント