西南戦争進軍の経過、大雪の中宿営はどのようにしていたのか、考察してみました

西南戦争進軍の経過は、かつて経験したことが無い積雪の中、二手に三万人の宿営は如何に。どのようにして西郷南洲翁たちが、宿営をしたのか考察しています。

西郷南洲翁の西南戦争への出陣後の流れ


明治10年2月19日に吉田町東郷熊助宅に宿泊し、
2月20日6時半に吉田を出立し、
9時には人吉大畑町で休憩、
2時に人吉町源島重兵衛宅に宿泊、
足病人二十数人があり手当てし休ませ、
当時人吉方限の見物人差し入れ等々続々あった。
なぜ人吉が、これ程大歓迎だったのか。

下記に示した人吉大火が関係している。

未曾有の大火災?人吉大火と西郷南洲翁の関係性とは?


主君島津斉彬公の不自然死により、月照和尚と入水、奄美大島潜居、愛加那さんと結婚し、
1860年3月3日の桜田門外の変により有村次左衛門が井伊大老の首を挙げ、
1861年1月2日に菊次郎誕生、
11月21日に西郷南洲翁召還命令で、
1862年1月14日阿丹崎出港、口永良部島途中下船、枕崎に到着し、
2月12日鹿児島に帰還。3月初めに上之園の共研屋敷に帰宅、10日後の13日には島津久光の命令で鹿児島を出発し下関に向かう。
この10日間に、2月7日人吉大火の相談があり、
復興資金の1万五千両を細川肥後藩が一銭も出してくれず、
300年中200年戦い100年同盟だった頼みにくい薩摩に資金支援を嘆願する。
その際に家老だった桂久武と小松帯刀が西郷南洲翁の帰還時に相談し、西郷南洲翁の一声「出して、たもんせ」と意見を貰い、
結果は薩摩が五千両、薩摩御用商人の大阪近江屋が1万両を用立てて、人吉城下町一帯の復興に繋がった。
尚、薩軍大小荷下駄
の隊長が桂久武であり、この二人への御礼が往路の人吉で、
3月には人吉隊を編成支援し、復路の人吉1ヶ月滞在になり、
現在でも人吉では西郷南洲翁崇拝が続いている。

文久2年(1862年)2月7日正午頃に鍛冶屋町にある鉄砲鍛冶の恒松寅助の家から出火した火災で、
空気の乾燥した時期であったこと西北から強風が吹いていたことも手伝い、
火は忽ちの内に川北から更に球磨川を越えて人吉城内にまで飛び火、
650年以上に及ぶ相良氏の人吉治世下において未曾有の大火災となった。

この火災による死者は奇跡的に皆無で、負傷者も3名ほどで済んでいる一方、
城内、城下の家屋等に甚大な被害を及ぼし、藩財政、城下の再建、
焼失した武器の再編などに影響をもたらした他、
慶応元年(1865年)9月25日に発生する丑歳騒動と呼ばれる藩内抗争へ飛び火する切っ掛けともなった。

また、この大火により、復興の資金として一万五千両の借金が必要となった。その為、隣接する熊本藩細川家に対して勘定奉行である犬童権左衛門が使者となり、同年10月に藩主の細川韶邦へ申し入れたが、細川家では相州警備、武器整備等に経費が掛かり、手を尽くしたが都合悪しとして断られている。

借財が捗々しくない事から、江戸に出府途上にあった家老の渋谷三郎左衛門が、大阪の近江屋半右衛門に対し一万両の借金を申し入れたところ、これを承諾された。

残る五千両を都合する為、犬童権左衛門は渋谷練助を伴い、薩摩藩島津家へと出向き重役の小松清廉・桂久武と面談、その即断により残る五千両の借財が叶った。その後、薩摩藩への返済の米輸送の為に元治元年(1864年)1月から大畑 - 吉田間に新道が作られ、この道を「薩摩街道」と呼ぶようになった(現在は殆ど使用されず)。またこれ以後、人吉藩と薩摩藩の関係は親密となり、島津家を通じて琉球大平布10匹、畳表100枚の見舞い(池田家からも見舞い)があり、更に島津家から大工、左官、木挽き、瓦屋、桶屋などが多数派遣され、復興支援が手伝われた。

西郷南洲翁の妻のイトの弟が私の曾祖父ですが、未妹は鹿児島に移住している相良家に嫁ぎました。一番最初の画像は家系図です。