西郷家と中村(桐野)家は親族だった可能性について考察してみました

誰も解明出来てない、西郷家と中村(桐野)家が親族だった可能性について考察してみました。西郷家と中村家の接点について、西郷家の家系の歴史を振り返りながら考察しています。


まずは西郷家の時代変化をおさらいします


西郷家は藤原鎌足~藤原道隆~藤原(菊池)則隆~(菊池)西郷政隆~長崎諫早西郷家~1702年に薩摩入りし西郷九兵衛~西郷吉兵衛は平瀬治右衛門三男で平瀬家(根占、桜島氏神一族の園田家と同家)から養子~西郷覚左衛門(妻は中村十兵衛の娘)~西郷吉兵衛~西郷覚左衛門(罪を得て割腹)~西郷(村山藤七の養子)竜右衛門(姉が中村市十郎の妻)~西郷吉兵衛隆盛~西郷吉之助隆永。


西郷家と中村家の接点について


西郷南洲翁の妹の鷹が三原伝左衛門の妻で、病弱な身で娘を産み翌年病死、娘のモリが中村家に嫁ぎ孫が中村三郎さんでした。

このように西郷南洲翁の二代四代先祖と、妹の二代後が中村家と縁がある。

私が数十年前に抱いた疑問が、幕末沖永良部島から帰還し、第一長州征伐後に中村半次郎を密偵で抜擢し広島に行かす。唐芋を届けた時期は何時なのか、

村田新八さんや桂久武さんのほうが付き合いも関係も古く永いのに、四番大隊長の桐野さんが右隣で、石灯籠も時代は違いが同種同規模である。

等々考慮考察すると中村家とは薩摩入りした先祖代々身内の親族であり、祖父の姉の曾孫なら、西郷南洲翁の二従兄弟の嫡男に成り、歳の差も10歳違いなので、全て納得がいく。今後の課題として探求していきます。


西郷家系図は西郷南洲翁自ら筆を取り遺した信憑性の一番高い系図です。常盤町の西郷家代々墓地の各々の墓に記されてる内容と一致しています。西郷南洲翁が南林寺にあった墓地時代に、墓と、寺の過去帖から家系図を書いたか、父の吉兵衛隆盛が勘定方書役で、それ以前からあったかです。


尚、桐野家は、島津義弘公の殉死者にある桐野治部左衛門利義の可能性が大で、その先祖は川内隈之城の重臣で、入来院に攻められ、出水に移り、大口の中村家と身内に成ります。また、その桐野家の薩摩以前の先祖を手繰ると、関西の桐野河内から明石周辺に移り住み、他の九割以上の武家の薩摩入りと同様に、訳ありで薩摩入りしたと推察します。

桐野利秋の墓だけが一番上等な明石御影石なのは関係が有りそうです。

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