西南戦争の薩軍出陣の真相と真実について解説します
西南戦争の薩軍出陣の真相と真実について、私、k10カフェの若松宏が解説しています。西南戦争の薩軍出陣に関する、更なる詳細と資料については、私のFacebookに投稿しておりますので、ご興味があればぜひ、見てみて下さい。
西南戦争に関する事前知識の説明と、真相、真実
西南戦争を話す前に先ずは、知っておかなければ成らない事が、あります。
当時の国政は太政官制度で、トップには三条と岩倉がいましたが、彼らは元々下級公家出身で、戊辰戦争により、従一位で永世5000石と正二位で永世5000石を貰い、西郷南洲翁の正三位て永世2000石と比べたら、「後の事は好きにしなはれ」と丸投げで、明治六年10月23日に下野し、鹿児島に帰還した11月10日には、No.2が大蔵卿から内務省を創り内務卿に自ら就任する。
明治9年2月に勧業博覧会を五回計画します。
3月28日に廃刀令、同日に木戸孝允が脳病で参議を辞任し闘病生活に入り、
全ての権力と財力が一人の独裁に成ります。
大蔵、内務、外務、兵部、文部等々全てです。
4月には英国に軍艦「比叡」「金剛」「芙蓉」を3隻発注し、
その建造監督に東郷平八郎海軍見習士官を命じ、
帰国出来ないようにした上で、
7月には金禄公債証書に給料(半分以下)を切り替えます。
10月24日に熊本、
10月27日に福岡、
10月28日に萩の乱で、取り囲み皆殺し(鹿児島が目的の地均し)です。
その間、12月までに鹿児島磯の武器大砲弾薬等々を政府の三菱の船で買い込み、1月末の従兄弟の大山巌陸軍少将が三菱の赤龍丸で滝之上の弾薬庫から持ち出す際には殆んど有りませんでした。目的は中原以下23名の救出でした。
2月には、従兄弟の川村純義海軍中将が御召鑑で入港しますが6日遅れさせられ、事既に遅しでした。
陸軍には弟の西郷従道陸軍中将が居ましたが、陸海軍トップの西郷南洲翁が軍服階級を付けたまま鹿児島に下野した為、実質、陸海軍トップは山縣有朋陸軍中将ですが、その指揮権は全て内務卿が独裁で持っていました。
木戸孝允は入院中で明治10年5月28日に病死します。薩軍が人吉からえびの小林に進軍してる頃です。
また、延岡可愛岳で隊を解散し、薩軍から西郷軍と成って600名が墳墓の地の鹿児島を目指し、ヒムカ街道の山中を走破する最中の8月21日から、上野の山で勧業博覧会が始まり、ワイン片手に社交ダンスをしながら外交交渉やビジネスや、軍艦大砲の契約等々をしていました。
2月から9月までに九州に派遣投入した陸海軍は15万人、
城山総攻撃では、陸海軍六万人で、城山包囲に五万人、小銃人数分は1分間に6発撃てる新式小銃、
対する西郷軍は350人に小銃は150丁で1分間に1発の旧式で、弾を拾いながら作ってました。
200対1の虐殺でした。
これが真実です。
尚、この戦いに新聞記者で来ていたのが犬養毅で、小倉の歩兵14連隊乃木希典の隊の軍曹が後の東条英樹でした。
詳しくは張り付けたFBに資料と投稿してあります。
https://www.facebook.com/profile.php?id=100004957848453
興味ある方は、ご覧下さい。
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